第一章、昨日の続きです。
聖書を、歴史的古文書――ドキュメントとして哲学的、客観的に読んで行く、スピノザが採った態度。書かれた言葉どおりに信じる「信仰」とスピノザの「哲学」との違いです。

そもそも「預言者」はヘブライ人のあいだで「nabi」と呼ばれている人で弁士または代弁者の意味。この言葉は聖書の中では常に「神の代弁者」のことに用いられている。
まず冒頭に「預言あるいは啓示とは、あることがらに関して神から人間に示された確実な認識である」と定義が示される。
この預言の定義から、自然的認識も預言と呼ばれ得るという結論になる。 というのは、我々が自然的光明によって認識することがらはもっぱら神の認識とその永遠なる決定とのみに依拠するのであるから。
しかし、この自然的認識はすべての人間に共通な諸基礎の上にに立脚しており、従ってまたすべての人間に共通したものであるから、その故にそれは民衆からはあまり尊重されない。民衆は常に稀なるもの・自分の本性とかけ離れたものに憧憬し、自然の賜物を軽蔑しがちだからである。従って彼らは預言的認識について語る場合、自然的認識を拒否しようと欲する。
そして自然的認識と預言的認識の違いは①預言的認識は自然的認識の限界以上にまで及ぶということと ②預言的認識はそれ自体において観られた人間の本性の諸法則によっては説明され得ない、ことである。
自然的知識が神的であるにしても自然的知識の伝播者は預言者と呼ばれ得ない。というのは彼らの教える事柄は他の人々も彼ら自身と同等の確実性、同等の妥当性をもってこれを認識し把握することが出来、それは決して単に信仰にのみ依るのではないからである。
ここでスピノザは、この論文の主な目的は「聖書に関する事柄について語る」ことだから、自然的光明については以上述べた数言で十分だとし本論に入ってゆく。
そしてすぐさま、「聖書を繙く時我々は、神が預言者たちに啓示した一切は言葉に依って或いは形象に依って或いはその両者すなわち言葉と形象とに依って啓示されたことを知るだろう」と、預言と形象とが分かちがたく結びついた関係にあることを指摘する。
ダビデには手に剣を握った天使によって神の怒りを示したように啓示が時に像に依って行われたが、ヨセフには実際の像ではなく預言者の表象力からのみ生まれる影像によって啓示した。ヨシュアに対しては彼がイスラエル人のために戦うべきことを像と言葉によって示した。 イザヤに対しても神の摂理が民を見捨てていることを形象によって示した。
これら一切は民数紀略十二章六節および七節に明らかに書かれている。 「若し汝らの中に神の預言者あらば我異象(ウイシオ)において我をこれに知らしめ、または夢においてこれに語らん。モーゼに対しては然らず。彼には口をもて相語り、異象に依れども謎に依らず。彼はまた神の像を見るなり。」とあり、また申命記には「イスラエルの中にはこの後モーゼの如き預言者あらざりき。モーゼは神が顔をあわせて知り給える者なりき。」とあるのだが、モーゼ自身は「決して神の顔は見なかった」(出埃及記三十三章)と書いているのだから、スピノザはこれは「声のことにのみ解さねばならぬ」とし、他の預言者たちが真実の声を聞かなかったことは疑いないとしている。
けれどもキリストに対しては、「人々を福祉へ導く神の教えが言葉または影像に依らずに却って直接的に啓示された。かつて神が自らを空中からの声を媒介としてモーゼに示したように、神は自らをキリストの精神を通して使徒たちに示したのだ。それ故にキリストの声はモーゼが聞いたそれと同様に神の声と呼ばれる。そしてこの意味においてまた我々は、神の知恵即ち人間のそれを超越する知恵がキリストに於いて人間性をまとったと言い得るし、またキリストは福祉への道であったと言い得る。
(と、こう書くのだが、すぐに、スピノザは、私は教会がキリストについて説いている事柄に関して語っているのではなく、その説を否定するのでもない。そうしたことは何も知らないと告白するが、ただ聖書そのものから推論されるのだ、と書いている。聖書のどこにも、神がキリストに現れたり語ったりしたことを読んだことがない、とも書く。)
「若しモーゼが神と顔を合わせて語ること恰も人がその友と語る(即ち双方の感覚器官を通して)如くであったとすれば、キリストは精神対精神で神と交わったのである。」
「キリストの外には誰もが表象力の助けに依ってのみ、即ち言葉や影像の助けに依ってのみ神の啓示を受け取ったのであり、従ってまた預言する為に必要なのはより完全な精神ではなくてより活発な表象力なのである。」
次にスピノザは、聖書が「神の霊」ということをどう解しているか? ――の探求に進む。
「ruagh 」という言葉の本来の意味は周知の如く風ということである。然しそれはこの意味から派生する他の多くの意味に極めて屡々用いられる。第一に気息(いき)という意味に用いられる。例えば詩篇百三十五篇十七節に、「またその口に霊あることなし」とあるが如しである。第二に活力又は呼吸の意味である。例えばサムエル前書三十章十二節に「霊また彼に戻りぬ」とあるが如きであって、これは彼が再び呼吸を始めたということである。
古人は凡そ人が依って以って他の人々を凌駕する所以のものを何でも神に関係せしめるのが習いであり、これはひとりユダヤ人に止まらず異教徒たちもそうであった。
例えば精巧に作られた品がある場合、それを彼らは神の如き手によって作られたという表現をする。
このようにして又常ならぬ徳或いは力は凡て「神の霊」若しくは「神の徳」と呼ばれる。
さて我々の論題に立ち帰るに、以上のすべてから、聖書に出てくる次のような表現、即ち「預言者は神の霊を有していた」「神はその霊を人間に降ろし給うた」「人間が神の霊または聖霊に満たされた」等々の表現の意味が極めて明白になる。これらの表現は要するに預言者たちが特別な・普通以上の徳を持っていたということ、また異常の操守をもって敬虔を実践したということにほかならない。更にまた彼らは神の精神或いは思想を把握したということに外ならない。何故なら、我々の 示したように霊とはヘブライ語では精神並びに精神の思想を意味するのであり、又この故に律法そのものも神の精神を説明している廉に依り神の霊または神の精神と呼ばれるからである。
(これを読んでめのおは、凡人がなし得ないような優れた技巧を尽くして作品を作る彫刻家や絵師に日本人が昔から讃える時に使う言葉、神業とか、優れた批評をする人を「批評の神様」と呼んだり、尋常では考えられないスピードで山を駆け上ったりする走者を「山の神」と讃えたりするのに日本人はむかしから慣れているから、ほほう、聖書もやはりそのようなものなのか、と安堵の笑みを浮かべたのでした。)
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