デカルトが無限実体として神、有限実体として精神と身体(物体)を別けたのに対し、スピノザは無限実体を神とするところはデカルトと同じだけれど、有限実体は存在しないとし、デカルトが属性として思惟、延長を挙げたのに対し、スピノザは「神の属性は無限に多くあるが人間の認識しうる属性は思惟と延長の二つだけである」とした。
また、デカルトが思惟の様態として認識、感情、意志、欲望を挙げ、延長の様態として位置、形状、運動などを挙げたに対し、スピノザは思惟の様態として精神=観念、欲望、意志、感情などを 挙げ、延長の様態=物体=身体を挙げた。
スピノザは18歳の時、ラテン語学校を開いていたファン・デン・エンデンから当時の最先端の科学(コペルニクス、ガリレイ、ケプラーなど)とともにデカルトの著作を知り、デカルトの影響を受け、デカルトを批判することから自らの思想を形成した。
ファン・デン・エンデンとの出会いはスピノザの生涯に重要な影響を与えたので、この辺をも少し詳しく探ってみよう。
それには、スピノザの出自と生い立ち、思索者となるまでの経過を辿ってみねばらねばならない。
スピノザの祖先はスペインのカステイリア地方の町 Espinosa de res Monteros の出で、d'Espinosa は出身地を表すもので貴族名ではない。d'Espinoza はポルトガル語形。
哲学者スピノザは1632年11月24日にアムステルダムで生まれた。
父ミカエル・デスピノザの二度目の妻ハンナ・デボーラとの間に次男として生まれた。二人の姉と兄と弟があった。
名前はポルトガル語でBento ベントー、ヘブライ語でバルフ Baruch と付けられた。ラテン語で ベネデイクトス、フランス語のブノワ Benoit 。前ローマ教皇と同じで「祝福されたもの」という意味。
父親のミカエルは16世紀の末に、南ポルトガルの小さな町ヴィデイゲイラに生れ、両親は迫害を逃れてミカエルが子供の時にフランスのナントに移住し、ここに15年間暮らした。しかしナントでも迫害に遭い、オランダに移住し、1616年にはアムステルダムに来た。
輸出入業「デスピノザ商会」の経営者として手広く商売を営み、アムステルダムのユダヤ人のなかで有力者の一人となりシナゴーグの理事を務めた。このように哲学者スピノザの家系はデカルトのように小貴族ではなく商人である。
ベントーはユダヤ人団体の学校でヘブライ語とユダヤ教聖典を学んだ。これは数百年来ユダヤ人社会では通例で、将来どのような職業につく者にも宗教的義務とされていた。
ベントーはこの学校教育を終えただけでは満足しなかったが、父親は将来事業を継ぐことを期待し、ベントーは13歳のころから父の事業に携わった。
1649年、ベントーが17歳の時、兄イサクが死んだため、ベントーの責任はいっそう重くなった。
1654年、父の死によりベントーは「ベントー・エ・ガブリエル・デスピノザ商会」の支配人となった。
もともと学問好きなベントーは商人の身分を嫌い、他の職業に就きたかった。しかしユダヤ人には、オランダの官職に就くことはできないので、ユダヤ神学者(ラビ)の道しかなかった。
この時期にベントー・スピノザはユダヤ経典の研究をし、タルムード(経典)の根本的理解や中世ユダヤ思想家に関する知識を広めていった。
ラビ・メナセ・ベン・イスラエルはアムステルダムのユダヤ人社会で重きをなす宗教学者のひとりだった。彼はヒューマニズムをユダヤ教に導入しようとする者で、厳格なタルムード学者モルテイラと対立した。モルテイラは後に、スピノザの破門を宣告した人。
富の追求に没頭する商人の生活が真理を求めてやまない学究ベントー・スピノザには耐えがたくなり、ついに1656年3月、23歳の時、商人生活を放棄した。父の事業の決算と財産整理のため法定管理人が任命された。
その4か月後、ベントーはユダヤ教団から破門を宣告された。1656年7月27日に布告された「破門状」はつぎのような激越なものであった。
「彼は昼に呪われてあるべし、夜に呪われてあるべし。彼は寝るときに呪われてあるべし、起き出ずるときに呪われてあるべし。主は彼を許さんとはなしたまわないであろう。主の怒りと憤りとはこの者に向かって燃え上がり、掟の書に記されているいっさいの呪いをこの者に投げたまわん。主は彼の名を太陽の下から滅せられん。……何人も口にも筆にも彼と交わることなかれ、何人も彼に好意を示すなかれ、何人も彼と一つ屋根の下に、あるいは4エルムン以内の地に、ときを送ることなかれ、何人も彼のものせる書を読むことなかれ」
(つづく)
