少数の判事が譲歩を拒否した。途中で法服を脱ぎ棄てて逃げ出した判事がいたので会議は残余会議の体をなしていたが投票の結果、アンヌ太后の提案を受け入れることが決まった。大法官に直ちに報告され、国王の書簡を持った使者が逮捕者の家族に釈放が真近いことを伝えに走った。もう一通の書簡が町を出て、ブルーセルとブランメニルが捉われているシャトーに向った。裁判官たちは解散し出来るだけ目立たぬようにそれぞれの家に帰った。
国璽の押された詔書を手にした町の触れ役人たちがブルーセル釈放を告げて町から町を巡り歩いた。しかし二日目の晩も自警団は 警戒を緩めず武器を手にしたままバリケードを警護した。商人頭はシテ島の市民(ブルジョワ)が自警団の指揮官大佐の指示を拒否して勝手にポン・マリーにバリケードを築き通行を遮断したと聞くと、さっそくポン・マリーに出向いてこのバリケードを取り壊してしまった。このエピソードは自警団に規律があり、勝手に行動することは許されなかった事を物語っている。

ブルーセル(Pierre Broussel) の肖像
翌(1648年8月28日)の午前十時頃、ブルーセルが乗った馬車が現れ、釈放が本当だったことを市民達は喜びあった。 馬車が向う先々でバリケードが次々と取り壊され道を開けた。人々は沿道に並び大声で「王様とブルーセル氏万歳!」と叫んで祝福した。
この時代、市民の国王への尊敬はまだ失われていなかった。
ブルーセルが乗った馬車はパリじゅうを走って回った。 「ブルーセル釈放」を神に感謝するためノートルダムで「テ・デウム」を歌うことが提案された。 老いた評定員はパリ市民の熱烈な祝福にも謙虚なままでいた。自宅に帰り家族と数時間を過ごした後、 高等法院へ出向いてモレ筆頭裁判長の祝福を受けた。
軍隊が出動するとの噂が流れ一時的に緊張が走り、崩しかけたバリケードを築き直す騒ぎがあったが、午後になっても何事も起こらず、 すべてのバリケードが撤去された。二日間の騒ぎは終わり、パリの店と市場が開かれ市民達は元の生活に戻った。
(つづく)