一昔前、 司馬遼太郎の「空海のいる風景」を読んだ時に、まだ僧になる前、修験道の行者として四国の山の洞窟に籠った空海が、ある日、雷鳴と稲妻とともに、あるヴィジョンを見た、と書いてあるのを読み、ひどく感動したものでした。
宗教者は大抵こうしたヴィジョンを見るのですね。それによって日常的な世界を超えたある至上の存在の力を悟る。
空海は語学の天才的な能力に加え書は中国人を凌ぐほどで、中国の僧たちを感服させ、インドの僧から直々に天台密教の極意を伝授され、日本に持ち帰ったわけですね。弘法大師と呼ばれ、民衆にも人気があった。ちょうど、アントニウスが修道士の父と崇められたのと通じ合うところがあるな、と感じるのですが。
書道、茶道、剣道、柔道、華道、合気道…と日本の古くからの武芸と芸事のほとんどの源が弘法大使に発している、と司馬さんが書いているのを読んで驚いたことを覚えています。二年前に初めて奈良の友達に高野山に連れて行ってもらい、そこの御堂に今日も弘法大師に捧げる火が絶えずに灯されていると知りました。
仏教が伝来する前の日本には、山岳宗教と修験道があったのですね。原生林が覆う山深く、道なき道を、三日三晩眠りもせず呑まず食わずで歩き回り行をする修験者がいたのですね。
修道生活の父とされる「聖アントニウス」のことを知るにつけ、めのおは、空海のことを思います。
聖アントニウスもある日、ヴィジョンを見たといわれています。めのお自身はそのような経験をしたことがなく残念ですが、ミステイックと いわれている人々はそういう経験をしているらしい。
聖アントニウスが見たヴィジョンは? アントニウスはある日の午後、法悦に浸っていた最中にあるヴィジョンを見ます。
それは天使に導かれ空を飛んでいる夢でした。
ボッシュはそれを左翼の上にこんなふうに描いたのですね。
肝心なところが本の厚さで白くなってて恐縮です。
天使に連れてゆかれた筈だったのに、突然、デーモンが現れ、アントニウスが若いころ冒した罪を思い出せと迫ります。
悪魔たちが魚や蛙やハイエナみたいに描かれてますね。
兜を被った騎士が大きく口を開けたスズキのような肉食魚に跨ってます。騎士の脚はやっぱり魚の尻尾ですね。両腕に大きな乾物の魚を抱えてます。騎士が跨ってる魚は生きて勢いよく空を飛んでる様が感じられ、こちらは乾燥した硬さが感じられます。
この魚は中世の城攻めの時に城門を打ち破るのに使った大槌の変形だと思われます。本当のいくさでは太い丸太を大勢で抱え、ドーンドーンと分厚い城門の扉になんどもぶちあてて破りますよね。
そして、アントニウスが仰向けに寝て両手を合わせ空に向かって祈っている。
まず、雲のようなガス状の気体が浮かび、その上に大きな魚の背びれ、または水かき状の膜が広がり、飛行機の翼の役を果たしている。仰向けに寝たカエルの上にアントニウスが背を乗せている。カエルかネズミか、はたまたその合いの子か、両生類めいた動物の裸の太腿が開き、その間に細長い尻尾が垂れている。その左には、痩せた腕を折り曲げたオオカミかハイエナみたいな顔の化け物が、口を開け鋭い歯を見せている。大きな両耳と頭の毛は逆立っている。手には葉の付いた木の枝を持っている。この枝にもなにか意味がありそうだ。カエルの右脚は金づちの細い棒を支えている。雲の右に、ダニのお化けが両手に大鎌を持って尻からガスを噴き出して飛んでいる。
右上の舟がすごい。羽根ともカブトガニ、もしくはフカ鰭みたいな翼を両側に広げ、魚と猫のハイブリッドみたいな化け物は、その猫の目をアントニウスに向けている。背に乗った船には、一匹のカジキみたいな魚が尾を曲げ背ビレを逆立て怒りの表情で口を大きく開けなにかに食いつこうとしてるようだ。
その左の裸の男はなんなんだ? 股の間から頭を逆さにしてアントニウスを覗いてるが、これは聖人を馬鹿にしてるか、からかうつもりなんだろう。
これらすべてが、ほんとうに空を飛んでるように軽やかに描かれていて、やっぱり凄いなあ~、ボッシュは大画家なんだなあ~、と 感心してしまう。写真が発達した現代、「絵」の第一義的役割は、現実に存在しない、想像の世界を描くこと、人間の内面を画像化することにあるだろうな、と思うのでなおさらです。
この空飛ぶ場面は、一種の空中戦として、後の絵画芸術に特権的なテーマとなりました。たとえば、マルテイン・ショーンガウアーや リューカス・クラナッハ(父)などが好んだテーマとなりました。
左の扉のほぼ中央に奇妙な格好で尻を見せ股を広げたジャイアントが描かれています。股の間に開かれた入り口を前に、長い角を生やした鹿が赤いマントを肩に掛け、青い頭巾を被った黒い顔で鼻が長いスプーンの男と並んで、恥ずかし気な表情で話を聴いている。
話をしてるのは二人の前に立ち、長い杖と三角帽子を被り右手を広げて汚らわしい入り口をこれ見よがしに示している赤いマントを羽織った枢機卿のような人物。たぶん彼は「視るがよい。これが、汚らわしい悪の寄り集まるところ。売春宿だ」と言ってるのでしょう。
よく見ると小高い土饅頭の上に男の頭が乗っている。その額に白い羽の矢が突き刺さっている。男は口を開け歯を見せ天を見上げて、こんなひどい目に遇わせたお方を「不当じゃないか」と呪詛してるようだ。そうか。これは股を広げたジャイアントの頭なのだ。
土饅頭と右側の黒い森が作る谷、ちょうど枢機卿の頭の辺りに、真ん中のパネルの絵の大火災の飛び火か、小さく炎が噴き始めているのが見える。
(つづく)
