「悲しみと喜びのあいだの、幸と不幸のあいだのへだたりは、わたしたちの場合よりも大きかった。すべて、ひとの体験には、喜び悲しむ子供の心にいまなおうかがえる、あの直接性、絶対性が、まだ失われていなかった。」
ホイジンガは、その著「中世の秋」をこんな言葉で始めている。(第一章 はげしい生活の基調)
「災禍と欠乏とにやわらぎはなかった。おぞましくも過酷なものだった。病は健康の反対の極にあり、冬のきびしい寒さとおそろしい闇とは、災いそのものだった。栄誉と富とが熱心に求められ、貪欲に享受されたというのも、いまにくらべて、貧しさがあまりにもみじめすぎ、名誉と不名誉の対照が、あまりにもはっきりしすぎていたからである。」
ホイジンガは、(ヨーロッパの)14・5世紀をルネッサンスの告知とはみず、中世の週末とみようとする試みだ、と第一版の序言に書き、さらにこの書の表題(中世の秋)は最初「ブルゴーニュの世紀」とするはずだった、と書いている。
フロンドの乱が起こった時代は、17世紀半ばで、「中世の秋」から時代はさらに下り、われわれの時代に近づくが、農村の生活は、さして変わってはいなかった、と思う。
「光と陰とが、幸福と不幸が、生と死が、田舎の共同体の生活には深く入り混じっていて、人々は、それらから受ける感情を強く表出する術を知っていた。」
(オルセット・ラナム「ラ・フロンド」1995年 Seuil社 以下の文もこの書の第一章冒頭の部分を要約して引用しました。)
17世紀の画家たちは、農村の生活を表すのに、好んで「踊り」を描き、それも執拗に熱心に描いた。
めのおが好きなフランドルのピーター・ブリューゲルも、好んで農民の生活を描き、なかでも村の祭りで陽気に踊りまくる農民の姿はユーモアに溢れ観ていて楽しい。
「踊り」は、この時代の農村社会にあっては、種蒔きや、収穫や、豆干しや、薪集めや、ブドウの手入れなどのルーチンを打ち破る絶好の機会だった。
さて、少しずつ「フロンドの乱」に近づこう。
17世紀フランスの人口は約1800万人だった。
金持ちも貧乏人も、大半は農村に住んでいた。1800万人のうち、約20万人が、高貴で豊かな暮らしを営んでいた。
田舎の選良たちは、シャトー(城)に、館に住み、都市の選良は邸宅に住んでいた。
村人は大抵、シャトーの陰の小屋や茅葺や瓦葺の屋根の石造りの小さな家に住んでいた。
村の中心部には、墓に囲まれた教会が 建ち、「コミュノー」と呼ばれる「入会地」で、農民は麦の脱穀、羊毛や豆の乾燥など様々な作業をした。
入会地には 結婚式や洗礼、葬式のために親や隣人が集まった。日曜のミサの後に、聖人の祭日には、男たちが集まり、収穫や税や隣人関係 などについて議論を交わした。
村の守護聖人の祭りとか、サンジャン(聖ヨハネ)の夜とかに集まり、王子様が誕生したとか、国王軍がスペイン軍を破ったとかのニュースが入ると、老人を除いてほぼ全員の村人が入会地に集まり、かがり火を焚いて、歓喜に沸きながら踊りまくった。
(つづく)
