西洋にはキリスト教があって、人々は臨終に際して審判にかけられ、生前の行いが善しと判断されれば天国へ、悪しと見做されれば地獄へ行かされると信じていた。人類全体の審判が最後の審判で、各個人は私審判とされた。
宗教が人間の倫理観に与えた影響は大きいと思う。
21世紀の現代人でも、殺人は罪である、人道に悖る、してはいけない行為だとほとんどの人は、生まれながら身についたもののように倫理観を持っていると思う。なぜ人殺しがいけないか? の問題に、考察を進める余裕はいまはない。
なんでこんなことを書きだしたかというと、イスラム過激派が自爆テロを行う、心理を知りたいからだ。
11月13日のパリ郊外のスタジアムで自爆テロリストを洗面所で目撃した人の証言では、テロリストは汗を流し蒼白な顔色で普通ではなかったという。評論家は何か興奮剤を呑んだのだろうとコメントしていた。一人は日本の神風特攻隊も出撃前に強い酒を呑んで出た、とまで言った。フランスのメデイアは自爆テロリストを「カミカーズ」と呼ぶ。もちろん日本の神風特別攻撃隊からきたものだ。
アササンは殺人者の事で中世から中東のシリアあたりから派遣される殺し屋がハッシシュを吸って恐怖心を殺したことから Hasshisu から派生して Assasin になったという。ことの真偽は明らかでないが、自爆テロリストにはそれなりの心構えがあるはずだ。その心構えが知りたい。
「Kamikaze カミカーズ」とフランスのメデイアが呼んでるいわゆるテロリストたちが、なぜ、カラシニコフと爆弾を仕込んだ胴巻きで一人でも多くの市民を道ずれにしようとするのか? という素朴な疑問が湧くからだ。
彼らの多くは30歳前の若者で、人生の半分も生きていない。死を覚悟して都市の人混みで多くの人々を道連れにテロを実行するに至る意識改革(過激化)と洗脳がなされるわけだが、いったいどんな話をして自爆テロを決断させるのだろう?
人殺しをすれば永遠に地獄に落され、炎熱、極寒、針の山を歩かされ、煮立った油に漬けられるぞ、と脅されれば、たいていの若者は躊躇するだろう。テロに向かわせるには、おそらく、神の名に於いて殺人をすれば天国へ行ける、と吹き込むにちがいない。
ブルゴーニュ・ワインの中心地、ボーヌには百年戦争の時代に建てられた立派なホスピス(施療院)が残っているが病院を建て病人を私財を投げ出して無償で治療した領主のご夫婦は、この世で善を行えば天国に行けると信じていた。
「神がいなければ、どんなことも許される」とドストエフスキーは言った。
無辜の人間を冷徹に自動小銃と爆弾で殺す。19世紀のロシアでも、ボルシェヴィキ革命が成功するまではニヒリストやアナーキストがテロをした時期があった。彼らには、ロマノフ王朝を倒すという政治的目標があったから「神は死んだ」といったニーチェの哲学を地でいったのだろう。
「アッラーは最高の神だ(アッラー・アクバル)!」と叫んで殺戮し自爆するテロリストがほんとうに神を信じているとは思えない。むしろ神を否定し、冒涜し、殺している、とさえ言えると思う。
キリスト教には「復活」のドグマがあるが、イスラムは復活を否定する。しかし、最後の審判はあり、死後に天国へ行くか地獄へ行くか裁かれるという。
神の名に於いて、あるいは正しい宗教を信ぜず、ゆがんだ邪教あるいは異端を信じる者は火炙りの刑に処す、というのはヨーロッパでは中世までカトリックが行っていた。12~13世紀の南仏で「カタリ派」と呼ばれる基督教の一派がローマ教皇により異端と判決され「皆殺しにせよ」と命令がくだった。トウールーズ、カルカソン、ピレネーの山の中のフォワとか、カタリ派は山の上に砦をつくって最後まで抵抗したが、フランス国王が差し向けた軍の包囲についに最後の一人までが改宗を拒み自ら火の中に身を投げた。
カタリ派が南仏やイタリアで流行った理由のひとつにはカトリック教会の退廃がある。「免罪符」を発行し、お金を出せば生前に犯した罪が軽くなる、と持ち掛け、信心よりも金が町人を動かし、坊主どもが肥え太っていったから。
カタリ派は仏教徒と似たところがあり輪廻転生を信じ菜食主義だった、といわれている。聖職者は完全者と呼ばれ、寛衣ひとつを身に着け、質素を旨とした。むろん肉食妻帯を禁じた。町人にも信者が増え、完全者が洗礼を授けた。入信する人の頭の上に完全者が手の平をかざし洗礼の言葉を唱えた。
現代フランスの政治体制は共和政治で宗教とは無関係の「ライシテ」を原則とする。「政教分離が明確にされたのはフランスでは1905年の国会決議による。ライシテ、とか「ライック=laique 」という言葉は、そもそも「聖職者ではない者から洗礼を受けた信者」を指すカトリック神学用語だということを昨日書いた。
「カタリ派」が異端と断じられた理由は善悪二元論と見做されたからだ。年末のエリザベス女王のメッセージ、「光と闇があり、闇は光に勝たなかった」という創世記だかヨハネによる福音書の冒頭の言葉だかの解釈が、そもそも「神がすべてを造りたもうた」ゆえに善がすべてであり「悪」は堕落した天使リュシフェールのなすところ、というのが正統カトリックの解釈で、カタリ派はそれを宇宙のはじまりに「善と悪」ふたつがあったとする二元論をとっている。二元論ということは神と悪魔が同等の価値で存在することを認めることになる。ゆえに異端であり、滅ぼさねばならない、とされた。
こないだ、スペインのコンキスタドールが話題になって、「ピサロ(またはピザロ)」についての本も出版されたこともあり、ネットでちょっと調べてみたのだが、インカ帝国の皇帝アタワルパを警護する7000人をたった130人足らずのスペイン兵が殺し、皇帝を人質に取るのだが、殺戮のきっかけは、字が読めない皇帝が坊主に差し出された聖書を地上に投げ捨てたこと。「神への冒涜」とみなされ、やはり神の名のもとに殺戮が行われた。
日本では「イスラム国」と呼ばれ、フランスではもっぱらアラブ語の「ダエッシュ」を使っているが、そもそもの起源は、前米大統領ブッシュ・ジュニアの対イラク戦争にある。イラク戦争は大量殺りく兵器をイラクが所有しているからこの危険を取り除くために軍の派遣が必要であるという論理の許、アメリカ始め英国、フランス、それに日本の自衛隊も派兵した。サダム・フセインの独裁をやめさせ、イラクに民主主義を導入するという大義もおまけとしてついていた。しかし、実際にアメリカ軍がやったことは、イラクの社会そのものの破壊で、兵士たちはめちゃくちゃをやった。
「イスラム国」の主導者、バグダデイーはサダム・フセインの軍の将軍の一人だった。それが今はイスラムの聖職者の中で最も位の高いカリフを自称し聖戦を呼びかけている。「シャリア」というのがコーランから引いたイスラム社会を導く法律である。その意味からいえば「イスラム国」は欧米が生んだ闇の児といえる。
いつ、どこで、どんなふうにテロが起こるか分らない。軍も警察も諜報機関も、実際のところ誰も正確に予測ができない。
「宣戦布告無き戦争」これがいま起こっている自爆テロによる戦争だ。軍人と民間人との差がない。隣の礼儀正しい大人しい青年が突然、過激化し自動小銃と爆弾胴巻きで大勢の市民を道ずれに死の闇へ向かって躍り出すかもしれないのだ。

