絵を描くことの意味 その⑥ | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

フェノロサには、伝統的日本絵画を狩野派の末端につながる人々によって伝授、継承させたい、との強い思いがあり、美術学校開校に当たって狩野芳崖を招こうとした。

この時代の芳崖は画家としての仕事は無く、輸出用陶磁器の絵付けをして細々と生活を立てているありさまだった。貧乏長屋で暮らす芳崖を訪れたフェノロサと覚三を芳崖は最初にべもなく追い返した。明治16(1883)年の冬のことだった。貧乏はしていても元来は長州藩御用絵師であり国事に奔走したこともあって気位が高かったのだ。

しかしそういう芳崖も、覚三が粘り強く何度も通ううち芳崖も心を開き、終いには再び絵筆を握らせることに成功した。畢生の傑作「悲母観音」の制作に当たり天心に金粉撒きを任せたとかいうほどまでになった。これには、いくらなんでもド素人の天心に委ねる筈がなく、橋下雅邦に撒かせたとの二説があるが、いずれにせよ天心の人柄が功を奏し親しくなっていたのだが、惜しいことに芳崖は美術学校開校の直前の明治21年に急逝してしまう。


悲母


元川越藩絵師橋下雅邦は病妻を抱え、扇子の絵を描き、三味線の駒を作り、海軍兵学寮で海図の図面の線引きをしながら、露命をつないでいるといった有様だった。そのような雅邦に絵師としての誇りを取り戻させたのも覚三の努力による。

覚三は明治21年初頭、「東京美術学校」開校の準備を任される。覚三は当初、油絵に代表される西洋画には冷たく、狩野芳崖や橋本雅邦らの伝統的「日本画」に強く肩入れしていた。1889(明治22)年東京美術学校第一期生として横山大観、六角紫水、下村観山らが入学した。たしかにこれだけを見れば、東京美術学校は最初、日本画だけで発足した、といえる。

1890(明治23)年7月にフェノロサは帰米し、覚三(天心)は9月に「日本美術史」「泰西美術史」の講義を開始している。必ずしも洋画を排斥したとはいえない。翌10月に校長に就任した。

東京美術学校は、明治3年から存在し、内紛などがあって廃校(明治16年)になっていた工部「美術学校」に代わるものとして設立された。工部というのは工部省の意味で、明治初年の欧化政策に基づいて設立された。工業面での設計、作図、作画の専門教育が目的であった。

こうした実用向きの作画に日本画はまったく役に立たない。透視図とか写実を基本とした洋画の技術を導入するのが工部「美術学校」の狙いだった。ここに招聘されたお雇い外人はイタリア人で、英米独仏欄などより一段格を下に見られイタリア側(在日イタリア公使館)の働きかけで3人の教授が来日した。

絵画のアントニオ・フォンタネージは優れていて学生たちに慕われたが、給料が、例えばフェノロサと比べると10分の1くらいしかなかったらしい。それと当時の日本社会のナショナリズムを感じ取ってか1年後には帰国してしまう。代わりに来た男が品格、技能的にも劣って授業もいい加減だったので学生らが怒り、授業放棄するに至った。明治11年11月のこと。小山正太郎、浅井忠ら11人が、明治11年11月に連盟して退学し作った会を「十一会」と名づけた。工部省としては、工業面での実用的な技術を身に着けさせるのが目的の学校に芸術家気取りの学生ばかりが集まり騒動を起こしたことに驚き、いっそ潰してしまえと明治16年に実際に廃校にしてしまった。

この工部美術学校退学組の小山正太郎と岡倉覚三との生涯に渡る対立確執は、旧福井藩出身の岡倉覚三と、越後長岡出身の小山正太郎との幕末維新の藩主の幕府への裏切りと忠誠が、この時期幼少期を過ごした二人のトラウマとなって尾をひいていた、というのがこの本「岡倉天心」美と裏切りの著者清水氏の見解で、裏切りというサブタイトルの意味もここにあるのだが、それはさておいて、天心フェノロサの東京美術学校が日本画中心で洋画に冷たかったために小山と浅井たち元工部美術学校出の画家たちが排斥されたというのは曲解といわねばならない。というのも、浅井忠は後に東京美術学校に教授として招かれているし、黒田清輝は創立から7年後の明治29年に西洋画科発足に際し教員として東京美術学校に招かれているからだ。

洋画を排斥したという事実は、官設の絵画展覧会「共進会」が洋画の出品を拒否したことに基づいている。農商務省主催の「内国絵画共進会」は明治15年と17年の二回開催された。フェノロサの日本画称賛の主張に強く促された側面があるほか、フェノロサを起用した「竜池会」、具体的には竜池会会長の佐野常民が農商務省関係のボス(佐賀藩閥のボス)だったことにあるという。この共進会が洋画の出品を拒否したことが、工部美術学校系の小山正太郎を中心とする洋画家たちが怒り心頭に発し、洋画排斥だ美術の国粋主義だと騒いだ原因となっている、と見るのが妥当に思う。

農商務省にとっては絵画の芸術性などはどうでもよく、日本の伝統工芸が世界市場に出回って売れることの方が大事だったのだから、殖産興業というナショナリズムと日本画が結びつき、フェノロサが日本の伝統技術を復活・振興することが輸出促進につながると唱えたことが、当時まだ本場の洋画と比べて見劣りのする日本人が描く洋画が共進会には取り上げられなかった、ということの実態ではなかろうか。

 (つづく)

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