当時この作戦に参加し存命中の兵士や従軍看護婦は現在みな若くて90歳かそれ以上の高齢者ばかり。フランスは英国、アメリカ、カナダから生存者を式典に招き、フランス最高の名誉勲章、レジオン・ド・ヌール勲章を贈る。
今日でこそ、フランスが連合国の一員、つまり勝利した側の一員として、戦後西ベルリンの管理にも加わり、国際連合の常任理事国として振る舞ってもいるが、この作戦が開始される前夜、また上陸作戦が成功した直後も、フランスの位置は明確ではなかった。
連合軍はノルマンデイー上陸成功後、一日も早くナチス・ドイツを壊滅させるため直接ベルリンの大本営を目指す作戦だったし、フランスの首都解放のためにパリに寄り道していては作戦がそれだけ遅れるので計画に入れていなかった。
ルクレルク将軍率いる自由フランス軍がアメリカ軍の一部とパリに進攻し、パリ市民のレジスタンスが一斉蜂起しパリ解放が実現されるまでにはド・ゴール将軍と連合国、英国、アメリカ軍指揮者の間に闘いがあった。
ナチスドイツ軍の機動作戦に敗北したフランス軍の一将軍として、ペタン元帥の休戦協定を不服とし、ロンドンに亡命し英米の力を借りて挽回を図るつもりでいたド・ゴールの立場は複雑微妙なものだった。チャーチルの厚い理解と援助が無ければ、ド・ゴールは「自由フランス」を立ち上げることも、フランス本土にレジスタンスを呼びかけることも、フランスの海外領土に「自由フランス」支持を呼びかけることも出来なかった。
永らく不参戦の立場をとっていた米合衆国をようやく味方に引き入れ、ルーズベルトに参戦決意を固めさせたチャーチルは、ド・ゴールにカールトン・ガーデンの建物を丸ごと貸し与え「自由フランス軍HQ(本部)」として使用させるとともに、亡命政権として「自由フランス」をいち早く認めた。BBCを通じて「戦闘に負けたけれども戦争には負けていない」とナチス・ドイツとの徹底抗戦を呼びかけたド・ゴールに応じて、インドのフランス統治領ポンデイシェリがいち早く応じ、象牙海岸、カメルーン、ガボンなど西アフリカ諸国、チャド、コンゴ、ウバンギ、タヒチ、ニューカレドニアも呼応した。ド・ゴールの矜持は、英国と分けあって地球を二分し世界各地に持っていた植民地、海外領土、つまり帝国に支えられていた。
ここで、もう一度ド・ゴールの「アピール(フランス国民への抗戦の呼びかけ)を見てみよう。
「フランス軍を指揮していた司令官たちが政府を作った。この政府は、われわれの敗北を正当化しながら、戦闘を停止するため、敵と関係を持った。
確かに、われわれは、敵の地上機甲兵力と空軍力に圧倒されている。敵の兵士の数よりもはるかに、戦車、航空機、戦略が、われわれの司令官を驚かせ、彼等が現在いる場所にまで退却させたのだった。
しかし、最後の言葉は放たれただろうか?
希望は消えねばならないのか?
敗北は最終的なものか?
違う!
私を信じたまえ。事情を弁えて言うのです。
フランスにとってはなにも負けてはいない。われわれを打ち負かした同じ手段が、ある日勝利を齎すだろう。なぜなら、フランスは独りではないから。背後に広大な帝国を持っている。海洋を支配し、戦闘を継続できる英帝国とブロックを形成できる。フランスは英国同様、米国の巨大な工業力を無限に利用できるのだ。
この戦争は、われわれの不幸な領土に限られたものではない。この戦争は、フランスの戦闘によって切り取られてはいない。
この戦争は世界大戦なのだ。
総ての過誤、総ての遅滞、総ての苦悩は、ある日、われわれの敵を粉砕するに必要な手段がこの世界にはあることを妨げはしない。
今日、機械力によって電撃されたわれわれが、将来、それを上回る機械力によって打ち負かすことができる。世界の運命はそこにある。
私、ド・ゴール将軍は、現在ロンドンにいる。フランスの将校、兵士諸君に呼びかける。英国領土に居る者、またはそこへ来ようとしている者は、私と連絡をとるように。
なにがあろうとも、フランスの抵抗の炎は消えてはならず、また消えはしない。」
これは1940年6月18日夜、ウエイガン将軍とペタン元帥がドイツと休戦条約を結ぼうとしていることを知ったシャルル・ドゴールがロンドンに着いたその日のうちにBBCを借りてフランス国民に最初の「アッピール」を放送した時の言葉である。
それから4年後、「今日、機械力によって電撃されたわれわれが、将来、それを上回る機械力によって打ち負かすことができる。」という予言が実現した。
1940年のドイツ軍によるフランス侵攻もそうだが、1944年6月6日のD-Day、連合軍によるノルマンデイー上陸作戦には、とりわけこの機械力、機械のみならず、巨大な物量と人と技術を組織し動員するオペレーション(作戦)の凄さをまざまざと見ることができる。
D-Day 70周年記念日が近づいたためフランスのTVで毎晩、ノルマンデイー上陸作戦に関するドキュメントが放映され、思わず見てしまう。
数百万人が動いた作戦を見ながら、そこにあっただろう数限りない人間ドラマ、死ぬ確率が50%という敵前上陸におびえながらも敢然と向かっていった兵士たちの勇気を推測しながら、僕はあることを考えた。それは周到に準備された作戦が最後に「ゴー」サインを出すか否かを決める要素に、人間が制御できない自然の天候という、不確定要素があったということ。この天候の予測の面でドイツ側と連合国側とに差が出て、それが勝敗の分かれ目となった、ということだ。
これは、70年後のわれわれが生きている今にも通じる、科学技術と物質文明の限界だなと感じた。津波と地震を機にメルトダウンに至った福島第一原発事故の教訓はどんなに科学技術が発達しても自然現象を完全には制御できない人智の限界を示しているではないか。
もともとヒトラーはアメリカの自動車王ヘンリー・フォードの崇拝者だったし、フォードの生産様式を取り入れてドイツの大衆車フォルクス・ワーゲンを作らせた。自動車の大量生産という20世紀の工業生産を決定づけた物と人間と技術の合理的組織化、最高の効率を自己目的化した生産方式。この面に於いてはドイツも米国も共通の基盤の上にあった。
なにが違うのだろう? ドイツ民族の誇り。優越意識。民族意識というような不合理なオカルト的な信仰に似た熱狂と、ヒトラーという独裁者への忠誠という中世的意識に支えられたナチス・ドイツ軍と、人種のるつぼといわれるように多様な民族が自由と人権という意識を持ち、共和国という理念を共有することによって成立する国家。個人の意志と自由という理念を、それがたとえ建前にすぎなくても、個人個人が信念として持っている個人の寄り集まりであるアメリカの軍隊。
一方の英国は、ヨーロッパの長い歴史と伝統を持つ国で、女王陛下への信頼と愛着を国民が意識の根底にもちながらも、清教徒革命で国王を処刑した歴史があるごとく、議会制民主主義の伝統を誇りとし、「自由」という観念をなによりも尊重するリベラリズムの本家のような国。
ノルマンデイー上陸作戦の起こりは、1941年にヒトラーとスターリンの間で交わされた「独ソ不可侵条約」をヒトラーが破り、ドイツ軍がソ連へ攻め込んだ「バルバロッサ作戦」にある。1943年11月28日、「テヘラン会議」においてスターリンは、チャーチルとルーズベルトに要請し、第二戦線をドイツから見て西側に開くことが決定された。
同年12月には、連合軍遠征軍最高司令官にドワイト・アイゼンハワー陸軍大将が就任し、作戦が具体化されていった。
上陸箇所は、フランスだけでなくノルウエーも考えれらていた。英仏海峡の最狭部、ドーバーとカレーを結ぶルートが最も可能性が高いのでドイツ軍はカレー付近の海岸に強力な防御線を敷いていた。ノルマンデイーのコタンタン半島の根元の部分の海岸に上陸が実行される最後の時まで連合軍は陽動作戦、カレーの海岸に上陸すると見せかける大規模なフェイント作戦を実行し、BBC放送でもウソの情報を流し続けた。ドイツ軍は、ヒトラーまでカレーに上陸すると信じ、ここに陣を張った部隊を南に移動させなかった。コタンタン半島の海岸だと読んでいたのは、ロンメル将軍ぐらいだった。
ロンドンを中心に英国に駐屯する米兵の数は約150万人。ドイツ側はもちろん英国にスパイを置いていたが、いちばん信頼が置けると信じていたスパイが実は二重スパイで連合国に有利なように情報を流した。ヒトラーが最後までカレー上陸を考えていたのは、このスパイの情報によるところが大きい。
(つづく)

