頭(観念)の中の直線に沿って刈り始めます↓
すると、それを見て、カミサンが「なんでヒモを張らないのよ」と注文を付けました。さすがフランス人だ。直線とか幾何学が大好き。
ともすけさんがデカルトについて書かれていたのに啓発されて、めのおもまたデカルトの「われ思う……」について考えました。
「われ思う故にわれあり」は有名なデカルトの出発点。ユークリッドが「点とは位置だけあって大きさのないもの」と定義することから、幾何学の体系を築き上げることを始めたように、デカルトも真理とは何かがはっきりしないこの世の中で、これだけは疑いようのない一点から出発して真理へ到達するための方法を築き上げようとした。デカルトにとっての「疑いようのないただ一点」とは、「すべてを疑っているこの考える私――つまりコギト」でした。「考える私」を存在の原点とし、そこから真理探究の方法を出発させたのでした。
デカルト大先生はめのおも大いに尊敬してるし、近代という人類史の壮大なイヴェントの基礎になる考えを始めたルネ大先生の頭脳は大したもんだと畏敬の念を抱いてますが、ルネ先生(デカルト)を生んだフランスも、老大国と呼ばれた7~80年代に比べてさらに国力、経済力、外交力が衰え小国になりさがってしまった事実をどうとらえたらいいんだろうか?
デカルト先生が、その壮大な方法探求の序説を始めるに当たって、「考える私」つまりオツムの方にまず意識が向いたところに、近代という時代の限界があったとめのおは思うんであります。なぜオツム? 大脳を支える身体、肉体、骨や血液や、脳細胞を網目のように繋いでいるシナプス回路に思いがいかなかったんだろうか? 言い換えると「思考」という働きを司っている「物質」になぜ思いを馳せなかったのか?
実際はルネ先生も思いを馳せたんだけど「思考という働きをしてる最中の物質を、その同じ物質が観察することはできない」。だから、出発点は考える私なんだけど、「考える行い」=「精神の働き」そのものを考察の対象とすることは難しいから、今は置いといて、ひとまず目に見えて具体的で分割できる物質の考察から始めよう。こうして精神と物質を分けることで近代合理主義が始まったわけです。
でも、と、アジア人であるめのおはフランスに住んで大分前から、こう考え始めました。「われ思う、故にわれ在り」というデカルトの公理は間違ってる。この公理が現実と乖離していることは、フランス人は気が付いてるし、だれよりもフランスの民衆がいちばんよく知っている。(ここでフランス人というのは広義のヨーロッパ、あるいは欧米人、西洋人と取っても良いと思います)。
ほんとうは「われ在り、ゆえにわれ考える」なんだ。それが人間実存の現実なんだ。デカルトにとっては、そんなことは当たり前なことで、なにも取りたてて言うほどのことではない。大事なのは真理に到達するための「方法」なんだから。
でもね、現実と乖離した「観念」に重点を置いた、その考えのために、現代のヨーロッパ、西洋の凋落がある。中国人を見てくださいよ。中国はアメリカを抜いて貿易額が世界一になった。彼らは、マルクス主義を信奉してますか? 弁証法的に現実社会を否定することによって歴史は理想社会に到達することが出来ると考えて商売をやってますか? とてもそうとは思えませんよね。60年代の日本。「銭ゲバ」ってマンガがあった。日本の商社は「ダボハゼ」と呼ばれたくらい、なんでも跳びついて金儲けのネタにした。今の中国、思想とか考えが先に立って商売してると思えない。ひとりひとりの欲望の赴くままに、やれ公害だ、やれ商取引の倫理だ、そんなの無視して旨いもん食って、金持ちになりゃあ勝ちだ、「われが在る」ことの方が大事じゃんか! 敢て思想があるってのならば、西洋近代は終わった、デカルト先生は現実を見る目を持ってなかった。思考を可能ならしめる肉体が、これからは蔓延る時代だ。欲望を肥大するにまかせよ。
話が飛んでしまったけど、デカルトの出発点が「われ思う、故に、われ在り」にあったように、ユークリッドが「点とは、位置だけあって大きさがないもの」という公理から幾何学体系を築き上げました。そこに戻ります。もう、なんども書いたのでまたか! と思われるでしょうが、何度でも書かずにおれません。これは、めのおの「生きてる理由」存在理由なんですから。
ユークリッドが公理で言いたかったことは、点とは、「位置」という観念(概念)が大事で、大きさは二の次、無限に小さくしていって「無」になる寸前のところまで無視しちゃっていいんだよ」と言うことだったろうと思います。
でもね、中学まで、学校では「真理」を教えるものと信じ込んでいた純真無垢の少年にとって「位置だけあって大きさが無い」なんて改まって定義されてみると「まてよ。大きさが無い。つまり、まわりの空気とおんなじように、何にもない。空、虚無ってことだな。なんにも無いものが位置を持つことが出来るの? 」って疑問がふと小さな頭をよぎったのです。デカルトのコギトと言っていいです。「あり得ないことを出発点として組み上げた体系が幾何学なんだ」。この発見に愕然として立ちどまってしまったのが少年がお勉強に躓いた一歩でした。
考えながらも、直線が完成に近づいた生垣↑
実は、ここには哲学の大問題、「存在と無」だとか「概念と実在」といった問題が含まれています。
ともすけさんは、西洋人は「概念」をはっきり頭に描くことが出来るのに対して、われら東洋人は、ぼんやりとしか曖昧に、概念というものが見えたり見えなかったりする、というようなことをお書きになってたと思います。
西洋人はほんとに「位置だけあって大きさが無い点」を頭に思い描くことが出来るんだろうか? 皆さんは、どうですか?
「大きさが無い。つまり無であるものが持つ位置」って想像できますか? プロのデザイナーさんや建築家が使う、Photoshop だのDreamweaver だの、デザイン・ソフトで点や直線を描くには、デカルトが創始した解析幾何が基本ですよね。最近は3次元もあるけど、基本はパソコンの限られた平面上の座標を示すことで点や線や面の位置を決めてデザインしてゆくんじゃないでしょうか。その時の点だってピクセルと呼ぶのか、大きさがあります。線にも太さがある。
「頭の中の線」と最初に書いたけど、正直、太さが無い線など想いうかべらんないです。大体の、アバウトな「感じ」で刈り込むだけ。現実に線を作るのは、植木の葉であり細かい枝なわけです。エジプト人の土木工事から幾何学が始まったのではと思いますが、ギリシャ人のユークリッドも観念の操作に長けてはいたけど、現実態と観念の落差については関心がなかったようです。プラトンのイデアもめのおには瞬間的に分ったような時と分からない時が混在してます。
アリストテレスの「エイドス」は形相(けいそう)と訳されて「目に見える姿、形」という意味で、具体的に感じられるモノとして実態に近い気がします。質量(ヒューレー)とか、素材とか理想の形態が素材の中に在るとか……、いろいろむつかしそうですね。でも、上に書いたようなことも含めて、この辺のことを認識論(エピステモロジー)というんじゃないか。難しいけど、少年の頃に、この世界に関心を持って以来、ほとんど進展していないですが、面白いし重要な世界なので、根気よく探っていこうと思います。フランスを去って日本へ帰ってからの課題ができました。




