昨夜のフランス、テレビ3チャンネルは、ユダヤ人絶滅計画の実質的推進者、ヒトラー政権下の国家保安本部初代長官で親衛隊の実力者、政治・警察権力を一手に掌握していたラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件について、暗殺実行者チェコ人とスロヴァキア人、ヨーゼフ・ガブツイクとヤン・グビシュの人生を中心に製作されたチェコの映画を放映した。
プラハ城の遠景 ↑ 画像はお借りしました。
ヒトラー・ドイツによりオーストリアが併合された後、スロヴァキアがまずドイツの支配下に入り、ついでチェコも国境周辺からじわじわと浸食されていった。
20歳そこそこのヨーゼフとヤンは、祖国の独立が危ういと知り、祖国を脱出、徒歩でポーランドに入った。ポーランドがまだドイツに侵攻されていない時代だった。
クラクフで二人は同じような脱国チェコ人450人に合流し、フランス行きの船に乗る。ダンケルクへの船旅は初めて海を見る印象深い旅だった。二人は、さらにマルセイユへ移り、そこでフランス軍の外人部隊に入隊した。
外人部隊に入った二人がアルジェリアへ移動する間に、ナチス・ドイツはポーランドへ侵攻し、英国とフランスがドイツに宣戦布告をする。ポーランドへ侵攻したドイツ軍の中にラインハルト・ハイドリッヒがいて、ワルシャワに入場、SS特殊部隊を創設、ユダヤ人と反体制派のポーランド人を次々捕えて処刑してゆく。
1940年5月、ドイツはベルギー、オランダを空爆し、ついでフランスの侵略が開始された。ヨゼフはマルヌの戦線へ。6月14日独軍はパリ入城。やがてフランスとドイツが休戦協定を結ぶ。
ヨゼフとヤンはフランスを去り、船でジブラルタル経由リヴァプールへ。フランスの軍服のまま二人は、リヴァプール郊外のキャンプで野戦の訓練を受ける。
8月、ドイツ空軍のロンドン空襲が始まる。RAF 英国空軍が果敢に防戦し、ヒトラーは英国上陸を断念。ド・ゴールがBBCを通じ連合国とともに戦争継続(レジスタンス)を呼びかける。ド・ゴールと同じようにチェコの大統領も英国に亡命していた。
ヒトラーは独ソ不可侵条約を破り、ソ連を攻撃。パイロットとしても優秀だったハイドリッヒはメッサーシュミットを操縦して自らソ連へ攻め込むが、被弾して不時着。ソ連赤軍に見つからぬよう洞窟に隠れて奇跡的に救助される。
1941年9月27日ハイドリッヒはベーメン・メーレン保護領(チェコ)の統治者としてプラハへ。プラハ到着と同時にチェコ全土に戒厳令を敷き、即決裁判所を設置。チェコ首相アロイス・エリアージを見せしめに逮捕して死刑判決を下し、その後温情を示して処刑を延期したりした。ゲシュタポを総動員し数週間で反体制勢力をチェコから消し去った。
オペラ歌手でハレ音楽院の創設の父、プロのピアノ奏者の母を持ち、自らもバイオリンを巧みに演奏したハイドリッヒは毎晩のようにコンサートを楽しむかたわら、諜報網を強化し、反ナチ活動家を殲滅していった。
この間、ロンドンではチャーチルと亡命チェコ大統領とが秘密工作計画を練っていた。エンスラポイド計画と名付けられたハイドリッヒ暗殺計画。
この計画に、祖国に独立を取り戻す熱意に燃えたヨゼフとヤンは志願し、イギリス軍特殊工作部の特殊訓練を受ける。
12月28日、輸送機に乗ったヨゼフとヤンほか10人の工作員は雪に覆われたプラハから200km離れた地点へパラシュート降下した。目標からかなりずれて降下したため、ドイツ軍の検問を潜り抜け、身分証明書の他に労働証や居住証明書が必要なため、現地レジスタンスの助けを借りた。
42年に入ったばかりの1月20日、ベルリン郊外のヴァンゼー(Wannsee)で、各省次官を集めハイドリッヒが主催して会議が開かれた。後にこの会議は「ヴァンゼー会議」と呼ばれる。この会議こそ正式にユダヤ人の「最終的解決」すなわち絶滅が決められたのだった。
アイヒマンはこう証言している。「会議は殺害、根絶、絶滅の方法について話し合われた。方針が決められ、目標が宣言された。最終解決の実行は即時行うとされた」
計画書なのか? 画面に映し出された紙には各地区の絶滅の対象となるユダヤ人の数が記され、いちばん下の合計欄には11,000,000 という数字がタイプで打たれている。絶滅計画が目標とするユダヤ人の数が1千百万人という意味なのだろうか。それとも実際に1千百万人が殺されたのか?
ヤンとジョゼフに住居と食料を提供してくれる市民も現れ、二人はハイドリッヒの移動経路につき情報を集め続けた。そして、ついに、プラハ城へ出勤するハイドリッヒが乗ったメルセデスベンツが、トロヤ橋の手前のカーブで必ず減速することを突き止めた。
1942年5月27日、秒単位で練られた計画は実行に移された。10時30分メルセデスが近づいたことを鏡の反射で合図。ヨーゼフが車の前へ飛び出て短機関銃で撃とうとしたがジャミングを起こして発射せず。車の中で立ち上がっていたハイドリッヒめがけてヤンが手榴弾を投げつけ爆発。
無傷のように見えたハイドリッヒは、車を降り、ヨゼフとヤンを追う。だが、ハイドリッヒの腹部と肋骨部には、車のスプリングと金具の破片が食い込んでいた。ハイドリッヒはよろめき倒れ、付近に居た市民が車で病院に運び込む。病院のすべての入院患者を追い出し、ハイドリッヒ専用の緊急治療体制を敷き、最優秀の外科医が治療した。
ベルリンのヒムラーは親衛隊医師団を連れプラハを見舞った。最良の医師団の治療も虚しく、ハイドリッヒは7日後に息を引きとった。遺体はベルリンに運ばれ、ヒトラー出席のもと荘厳な葬儀が行われた。
その後、ナチスがとった報復はすさまじく、チェコ全土に戒厳令が敷かれ、襲撃からハイドリヒ死亡までに157人が射殺され、工作員を匿ったとされるプラハ郊外にある人口500人ほどのリデイツエ村は、220人ばかりの男は全員その場で射殺、女子供は強制収容所へ送られた。
ヤンとジョゼフほか10人はプラハにある正教会、聖ツリル・メトデイ正教大聖堂のクリプト(地下礼拝堂)に匿われていたが、協力者が拷問にかけられ、ついに隠れ場所が発覚、750人が包囲し、2時間の銃撃戦の末、工作員全員は自決。教会の司祭や助手らも殺戮された。42年5月28日~9月1日までに拘束されたチェコ人3188人、うち1357人が即決裁判所で死刑を宣告された。
