ブログ仲間の「ももさん」はいつも、貧しい人、世の中から弾き出された人々への深い思いやりが籠った記事を書かれていて、読むたびに感動させられてしまいます。感動するだけで何もしないめのおは恥ずかしい限りですが、昨年12月14日付けのアメブロへの投稿記事 「初詣でも近いけど」には、神社へお参りをする時の、最低守らねばならない手順が詳しく書かれていて、とりわけ感心したのでした。
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若い頃のめのおがそうだったので思うのですが、最近の若い方々は、ももさんが書かれている通り、こうした昔からある習慣を軽蔑し無視して願い事だけする人が増えてるんじゃないでしょうか。齢を重ねるにつけ、また外国で暮らす年月が長くなるにつけ、めのおは人間の文化や社会はこうした眼に見えない慣習や決め事で成り立ってるし、無視できない大事なことなんだなと思うようになりました。
ももさんがここで書かれていることのなかで特に、「手水舎(てみずや」で柄杓を使って手と口を清める手順に、とりわけ感心したのでした。不信心のめのおも2度か3度は手を清めたことはありますが、柄杓を持ち替えて両手を洗うことはなかったし、口を漱ぐなんて「清め」の意味を無視して乾いた喉を潤したくて飲んじゃった覚えがあります。
「手水舎(てみずや」なんてものは日本だけの慣習だろうとばっかり思い込んでいたんですが、どっこい、かなり広い範囲の、もう世界中といっていいくらいの、共通した仕来りなんですね。
日本は水が豊富です。しかも清く澄んでます。清流が至る所にある。だから、「水に流す」とか「禊」なんてことは日本だけのもんかと思ってたんです。
ところが、「沐浴」とか「洗礼」とかとも関係があるって最近知ったんです。
まず「水」という言葉ですが、仏教では「あか」といいますね。「閼伽」とむずかしい漢字を書いて、仏さんに供える水のことを言います。梵語のarghya (功徳水)が語源らしいです。でも、これってラテン語の aqua (水)と関係あると思うんですよね。
ラテン語のアカは現代欧米語にも残っていて、「水族館」はaquarium、 水中翼船は aquaplane、 美術に関心ある人なら 水彩画をaquarelleと言い、版画には アクアチント aquatinte、エッチング aquaforte といろいろあるのをご存じと思います。
今日は、キリスト教やユダヤ教の発祥地パレスチナと日本の神社の「手水舎(てみずや」が関係ありそうだ、って推論を書こうと思います。むろんこのことはなんの証拠も証明もできない想像に過ぎませんが。
昨年、日本の鳥居がユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」の羊の血を玄関の枠に塗るのと関係ありとか、京都の葵祭の山鉾の側面の絵に聖書の場面が描かれているとか、御神輿(オミコシ)が、ユダヤ教のアルシュ、契約の箱 Arche d'alliance (モーゼの十戒を入れた箱)と形も担ぎ方もそっくりだとか、いや、さらに言えば三種の神器の一つ鏡の裏面に書かれた文字はヘブライ語だ、とかの話を読んで、これは面白いと思ったものですから。数千キロ離れたパレスチナの地から大陸を横断してユダヤ民族の一部が日本へ辿り着いたと、想像してみるだけでも楽しいと思うんです。
バプテスマ(洗礼者)のヨハネがいますよね。「ラクダの毛皮のチュニック(貫頭衣)を着て、皮ヒモのベルトを腰に巻いた」と預言者エリアが書いているそのままの格好で、ヨルダン川で沐浴し、イエスに洗礼を授けた男ですね。砂漠でパンも食べず、ワインも甘露や醍醐など発酵乳も飲まず、天然の蜂蜜だけを食べて生きていたとされます。
基督教の洗礼も起源を辿れば、太古から、ヨルダン川やナイル河、ユーフラテス河などで、イシスやミトラやエレウシス信仰と結びついて行われていた聖なる「清め」の習慣に遡れるといわれています。
ヨルダン川は死海とテベリア湖を結ぶ川で、河畔のオアシスのジェリコには紀元前1万年ほど前に定住民が住んだ住居跡が考古学者によって発掘されています。
水で身体を清めることはまずエルサレムの神殿に仕える僧侶の間で行われ、式典の前と後、大僧正となると5回全身を水に潜らせ、手を10回洗ったそうです。
紀元前1~2世紀ごろになると、この習慣は、イスラエルの一般民衆の間に広く行われるようになった。
ユダヤ教のヨベル(50年節)書には「身を清浄に保つように。供物を捧げに行く前に水で身を洗うように。両手と両足を祭壇に上る前に洗いなさい。捧げ終わったら、もう一度両手と両足を洗うように」と書いてあります。
そして「手水舎(てみずや」の起源ではないかと思われるプール、沐浴場を、考古学者たちが沢山、ユダとかガリラヤ、ジェリコとかマサダでも発掘しています。
「手水舎(てみずや」と比べればずっと大きく、縦4m、幅2mで、容量は約600リットル。石段を2・3段降りて、水に漬かったそうです。その水は雨水でなければいけなかった。雨は天(神の手)から授けられた水だからです。
