「ダーツ」英語では「デーツ」。ナツメヤシの実です。
1kg入り約500円でスーパーに積んで売り出されてたので買っちゃいました。
アルジェリアに行ったときに良く食べました。もちろん、モロッコにもチュニジアにもあります。砂漠のオアシスに植えられている背の高いナツメヤシのてっぺん付近に房をなしてたわわに実ります。枝についたままのがおいしいですね↓
干柿に似た味がします。カロリーが非常に高く、砂漠を横断するキャラバンは此のダーツをラクダの背に積んで食料にしながら旅を続けました。
昔、サウジのメッカでテロリストの集団が聖地を占拠して立て籠もった事件がありました。1週間、彼等はこのダーツだけを食べて命をつないだそうです。
それは、まあ余談として、ド・ゴール将軍がロンドンで最初に手を着けた行動は、アフリカのフランス帝国(当時の植民地)に「自由フランス」に組するよう呼びかけることでした。
暫くぶりに、ド・ゴールは回想録に戻ります(第一巻73ページ)。
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さらに、この大部分のプロコンスル(人気が終わっているのに統治・支配を続けようとする輩…後注)たちの一種の衰弱は、本土における政治の全面的崩壊と附合している。
ボルドーから、ついでヴィシーから届いた新聞は、プロコンスルたちと、あらゆる政党、グループ、権威、制度が(崩壊を)受容したと伝えている。
7月9日と10日に開かれた国会は、ほとんんど討議することなくペタンに全権を委譲した。
ただ、出席した80人の議員がこの(国会の)放棄に勇気ある反対票を投じた。
さらに、マシリア(Masilia)丸に乗船して北アフリカに向かった議員たちは、帝国は闘いを放棄すべきではないと証言している。
しかし、政治家はだれ一人として、休戦協定を糾弾する声を挙げていない。
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少し日付を前に戻すと、ロンドンへ着いてまもなく、ド・ゴールはウエイガン将軍に手紙を書きました。しかしウエイガンは開封もせず手紙をド・ゴールに送り返します。封書の宛名のタイトルが間違ってるという理由で。
「この投降した将軍が、驚いたことに国防大臣だというのだ」
6月30日、ロンドンのフランス大使館はド・ゴールにある命令を伝えました。
「ウエイガンが私を軍法会議にかけるため、トウルーズのサン・ミシェル監獄に収監するという。まず1か月の収監。ついでウエイガン国防相の要求により、死刑の判決を言い渡す積りなのだ」
事実、1940年8月2日に、クレルモン・フェランの軍事裁判所はシャルル・ド・ゴールに死刑の判決を下しました。
ロンドンの「自由フランス」は7月末になって7000人が集まりました。その中には、ノルウエー作戦に参加していたフランスのアルペン部隊がいました。アルプスの国境地帯を守備するのが通常の任務で、雪の中を、ノルデイックスキーを履き、白い防寒服を着て軽装備で行動します。前回の冬期オリンピックのバイアスロン(ノルデイックと射撃)で、フランスが金以下複数のメダリストを出して活躍しましたが、ほとんどの男女選手はアルペン部隊に所属した現役の軍人でした。
英国政府は早々と1940年の6月28日にはド・ゴールを「自由フランス」の長として公式に認めました。
しかし7000人では、実質的な軍事行動は出来ず、当面、自由フランスは連合軍の諜報部隊としての機能を果たすことになります。
ド・ゴールがロンドンで採用した2人目のフランス軍人は、その後「パッシー大佐」のハンドル名で活躍します。
7月17日には、早くも自由フランスの最初の諜報員がフランス本土の占領地区へ潜入します。
ド・ゴールが初期段階で力を入れたのは、フランス帝国(現代の呼び方をすれば旧植民地)の総督や司令官に「自由フランス」に組して闘いを続行するよう呼びかけることでした。
ノゲス(Noges)駐モロッコ、北アフリカ部隊司令官、レバノン司令官、インドシナ総督も含め、西アフリカ諸国の帝国軍司令官に防衛の組織化を説いて回りました。
セネガルのダカールには英国船に乗り自ら赴いて説得しましたが将軍は拒否、砲撃で脅かしますが失敗に終わりました。
セネガルを例外として、この呼びかけは功を奏し、40年の7月から9月にかけ、ぞくぞくと「自由フランス」に組する国々が現れます。7月26日象牙海岸(アイヴォリ・コースト)8月26日チャド、27日カメルーン、28日コンゴ、29日ウバンギ、9月2日タヒチ、9月24日ニューカレドニア、11月9日ガボン……といった具合に。
ド・ゴールとアフリカの因縁は深いですね。戦後、1960年前後にアルジェリア独立戦争が始まり、独立を認めたのもド・ゴールでした。アルジェリアは1830年から130年の長きにわたり、植民地ではなくフランスのひとつの県としてコロンと呼ばれる入植者たちが生活してきた土地でしたから、独立を阻止しようとする軍人たちがド・ゴール暗殺を企てます。
ド・ゴールには知的障害をもつ娘がいて、普段感情を示さない将軍はこの娘だけには愛情を注いでいたといいます。アルジェリア独立の年には、この娘は他界していましたが、ド・ゴールは娘の遺影を額にいれ肌身離さず胸のポケットに入れていました。
クラマールというパリの南の郊外を、ド・ゴールと夫人を載せたシトロエンDSが通過した時、4人の銃を持った男たちが一斉に射撃しました。車に無数の穴があきましたが、ド・ゴール夫妻はかすり傷ひとつ負わず無事でした。
「4人もいながら、一発も当たらない。銃の使い方を知らない奴らだ」
車から降りたド・ゴールは吐き捨てるように言ったといいます。
しかし銃弾の一発はド・ゴールの胸に当たっていました。娘の遺影を入れていた額がその弾を受け止めていたのでした。
(後注:プロコンスル、植民地の総督、独裁者。ローマ時代には、任期をまっとうした前執政官に、属州統治権、軍隊の指揮権を継続して与えるために設けられた職名)
(つづく)

