第三共和政の1940年、フランスという国の存続そのものが危ぶまれているこの時期に大統領が、ほとんど顔を見せず影が薄い存在なのは何故か? と訝しく思われるのです。
チロルにあるイッテール城。多くのフランス政府要人がここに閉じ込められた↑
第三共和政というのは今日と違い大統領の権限は小さかったそうです。選出の仕方も、今日のように国民投票によるものではなく、上下両院の国会議員の投票で過半数を得た者が選ばれた。大統領は国家元首ではあるものの、行政の権限は内閣の首班、首相が握っていた。
アルベール・ルブラン大統領は、1932年5月10日ポール・ドーメール大統領の暗殺の後を継いで共和国大統領に選出された。1939年4月5日に55.6%の票を獲得して一回目の投票で再選されました。
1940年5月の独軍の侵攻に軍が敗北を喫し、ウエイガン将軍とペタン元帥が休戦を主張する中、レイノー首相、と共に北アフリカへ退き帝国を舞台に抗戦を続ける考えを持っていました。
しかし、レイノー首相が辞任してしまったために後任に副首相だったペタン元帥を首相に任命し休戦条約が結ばれました。
ここで少し時間を先回りします。
ルブラン大統領は、国会議員たちによる辞任勧告を拒否し、ペタン元帥に全権が委譲されると権力を奪われ、イゼール県のヴィジルVizille という村の娘婿の家に引退し、イタリア軍の監視下に置かれました。
ルーズヴェルトはド・ゴールを嫌ったので、ナチス・ドイツの敗色が濃くなった時期、ル・ブラン大統領に、レジスタンスを通じて接触し、フランス解放の後、大統領に戻る意志があるか打診しましたが、ル・ブランは拒否しました。
ヒトラーはゲシュタポにルブランを逮捕させ、1943年9~10月に、オーストリアのチロルのイッテール城(Chateau d'Itter、上の画像↑)に送りました。そこには多数のフランスの要人が幽閉されていました。
これらの要人とは、旧首相のレイノーとダラデイエ、在独仏大使のフランソワ・ポンセ、ジョルジュ・クレマンソーの息子ミシェル・クレマンソー、ガムラン、ウエイガン両将軍、さらに1945年4月になってド・ゴール将軍の姉でレジスタンスに加わってたマリー・アグネス・ド・ゴールが収容されています。
レオン・ブルム旧首相とジョルジュ・マンデルはユダヤ人であるため、シャトーへは収容されず、同じDahau 収容所の管轄下にあるブッシェンヴァルトBuchenwald 収容所のすぐ脇にある家に収容されました。
ルブラン大統領がイッテール城に幽閉されていたのは1943年9月から1943年12月までの4か月間で、健康が悪化したため再びヴィジル Vizille 村の娘婿の家に戻されドイツ軍に監視されました。
アルベール・ルブランの共和国大統領としての任期(権限)は1946年5月10日までありましたが、1944年10月13日にド・ゴール将軍と会見し、フランス解放が彼によってなされたことを祝福しました。
シャルル・ド・ゴールの回想録第3巻「救済 Salut(1944~1946) 567page」には、二人の会見の模様が記録されています。ルブラン大統領がド・ゴールに言った言葉を、大統領は公表するよう依頼したとド・ゴールは書いています。
「私は、あなたがなさったことに全面的に賛意を抱いておりました。あなたがいなければ総てが失われた。あなたのお蔭で総てが救われた。個人的には、私はいかなる表明も出来ませんでした。ただ、この訪問の記録を公表して欲しいとだけお願いします。私は公式には辞任をしませんでした。正統な国会が消滅していた時に、いったい誰に辞任を届け出られましょうか? しかし、私はあなたによって総てを得られたと証言します。」
1940年にペタン元帥に国会が全権を委譲した事件につき、ふたりは意見を交わし、ルブラン大統領は6月16日にレイノー首相が辞任した時に、代わりにペタン元帥を首相に任命したことに深い後悔を示した。そして多数の閣僚と同じく、この決定には、ウエイガン将軍が休戦に固執して譲らなかった背景があったことを示唆した。
大統領の視線は、北アフリカへ移り帝国を舞台に抗戦を続けることが可能だというものだった。この点につき、ルブランは「究極の危機に将軍たちが戦闘を拒否するとは、なんという不幸だろう!」と嘆息したという。
ド・ゴールは礼を言って辞去した後、この対談をこう評している。
「実際、国家元首としては、2つのことが彼に欠けていた。長であること。そして彼が国家を持つこと」
第三共和政下での大統領の権限があまりに弱かったことを痛感したド・ゴールは、1959年に自身が大統領になると権限を大幅に強化拡大した。それが今日第五共和制になり、大統領が毎日国民の前に顔を出す結果となって表われている。とりわけ、サルコジの時代はマスコミを意図的に利用し、テレビで大統領の顔を見ない日がないくらいに、国民と密接な繋がりを持った。現オランド大統領には国民はその点で不満を抱いている様子だ。失業問題が解決できず、320万人を超えてしまい、外交的にもフランスの権威が下落したと多くの人が感じ、支持率は20%を切ってしまっている。
(つづく)

