1940年前後のフランス史 その21 | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

ピエール・ラヴァルがペタン元帥に全権を委譲するという憲法の改正案を国会議員たちに根回している間にもドイツ軍の進撃は続いていたのであり、北フランスに住んでいた数百万のフランス人は南へ南へと避難し、持てるだけの荷物を、あるいは自動車の屋根に、あるいは荷車に積んで街道という街道を埋め尽くしていたのだった。


フランスの田舎暮らし-切手
       人民戦線を記念した切手↑ フェルナン・レジェのレジャーと題した絵が使われている


そういう事情を、1940年7月10日にヴィシーのカジノでの国会の決議、何故、議員たちは自殺行為とも言える議会の全権をペタン元帥独りに委譲してしまう決議をしたのか? の答えを探る上で考えに入れておかなくてはならない。

というのも、国会議員でありながら、ヴィシーの国会へ交通の便を奪われるなどの理由で出席できなかった議員たちが、計算してみると258人も居るのだから。

この時点でのフランスの国会議員の総数は上院下院合わせ、907人だった。ヴィシーへ来れなかった国会議員のうち20人は共産党議員で、ヒトラーとスターリンが1939年8月に結んだ独ソ不可侵条約により、「利敵政党」と見做されて非合法化され、国会議員の資格をはく奪されていた。

907人の国会議員の中には、かつての「人民戦線派」の議員たちが多くいた。
ここで、フランスがナチスドイツに敗北する直前まで、フランスの政治の主要な潮流だった「人民戦線」について簡単な復習をしておきたいと思います。

1932年8月、作家のロマン・ロランやアンリ・バルビュス、アンドレ・ジッド、アンドレ・マルローらの呼びかけによりアムステルダム国際反戦大会が開催され、38カ国から2196人が参加し、翌33年6月、パリのプレイエル会館で第2回大会が開催された。この運動は、アムステルダム・プレイエル運動と呼ばれ、反戦反ファシズム運動として発展した(日本からは片山潜が発起人として参加)。

そのような状況下の1934年2月6日、前年にドイツでナチスが政権を掌握したのに刺激されて、右翼・ファシストが議会を攻撃する事件が起こった。当時、フランス社会党とフランス共産党は対立していたが、この事件を機に、反ファッショ勢力の結集と行動の統一がはかられ、社会党系の労働総同盟の提唱したゼネストに共産党系の統一労働総同盟も参加し、共同行動に発展し、議会内でも左派政党が連合しての派閥を形成した。

当時非共産主義を主張していたナチス・ドイツへの警戒もあり、同年仏ソ相互援助条約を締結する。急進社会党もこの左派連合に加わり、1936年4月に行われた総選挙で人民戦線派が圧勝した。現代政治史上初の革命によらない社会主義政権の誕生だった。新首相には社会党のレオン・ブルムが就任した。共産党は閣外協力という形で政権に参加した。またこのとき女性3名が入閣した。フランス史上初めての女性閣僚だが、婦人に投票権が与えられたのは1944年になってから。

人民戦線(じんみんせんせん, 仏: Front Populaire)は、反ファシズム、反帝国主義、反戦主義を共同目標とする集団であり、その起源はフランスの労働階級の統一戦線から発展したものだが、人民戦線という呼称は1935年の第7回コミンテルン世界大会でブルガリア共産党の指導者ゲオルギ・ディミトロフの提唱に起源を発する。

人民戦線はフランスの他にもスペインとチリで政権を掌握し、労働改革・社会改革などを実現した。

フランスは中産農民層がその人口の大きな部分を占め、その民主主義意識がプロレタリアの指導に盲目的に服従することはなく、共産主義をファシズム反対ということ以上には評価しなかった。

フランス共産党は1936年6月初めにはフランス全土のストライキに対して社会党、労働総同盟などと協力してストライキ中止指令を出したり、同年10月中旬アルザス=ロレーヌ地方の共産党の示威集会を政府の要求により集会の数を制限するなど、反ファシズムに重点を置き人民戦線維持のために協力した。

フランスでは、有給休暇(ヴァカンス)・労働組合の地位向上、週40時間制の実施、教育改革など重要な労働・社会立法を行ったが、1936年7月に発生したスペイン内戦への対応をめぐって、レオン・ブルム内閣は態度を明確に出来ず、スペイン人民戦線からの武器給与の要請にも協力しなかった。

スペインへの不干渉を主張するダラディエの率いる急進党と、積極的な人民戦線政府への支援を求めるフランス共産党の関係は悪化し、1937年6月にレオン・ブルム内閣は総辞職し、フランスの人民戦線は崩壊した。

人民戦線運動は1935年7月、モスクワで開催されたコミンテルン第7回大会で提唱され、コミンテルンの方針転換をもたらしたが、1939年8月にスターリンがヒトラーと独ソ不可侵条約を締結したため終結の憂き目を見た。

コミンテルン(スターリン)の方針は、反ファシズムよりも「アメリカ・イギリス帝国主義への反対」が強調され、コミンテルン支部の各国共産党と反ファシズム運動内部に混乱がもたらされた。また、フランス共産党は党員の3分の1が「独ソ協定」に反発して離脱し、政府からは「利敵団体」として非合法化された。

1939年のナチス・ドイツによるフランス侵攻という段階に至っても、(のちに捏造される伝説とは違って)フランス共産党は反ナチ・レジスタンス運動を開始するどころか、当初は占領当局に機関紙『ユマニテ』の発行を請願し、アナーキストやトロツキストの名簿をナチスに渡したりしている。

1941年のナチス・ドイツのソ連侵攻に至って初めて、フランス共産党も武装してレジスタンスを開始する。フランス共産党のレジスタンスは「ドイツ兵を一兵でも多くソ連から引き離せ」というスターリンの指令によって、開始の当初からナチ将校の射殺を繰り返す激しい戦術を採用し、対するナチス側の弾圧も「疑わしきは処刑」と熾烈を極めたことから、フランス共産党は「銃殺を恐れぬ党」としてフランス社会で権威を取り戻すことになった。

また、フランス共産党は「愛国主義とインターナショナリズムの融合」をレジスタンス運動におけるスローガンに掲げ、ドゴール派らブルジョアジーのレジスタンス組織とも協調した。あるいは、レジスタンスの大衆組織として「国民戦線」(現在のルペンらの同名組織FNとはまったく無関係)を結成し、主に中産階級の取り込みを図った。

以上、ウイキぺデイアの「人民戦線」の項を基にレジュメとしました。


  (つづく)

ペタしてね 読者登録してね