それでも「呼びかけ」に応じたフランス人はいた。ブルターニュ半島のサン島(ile de Sein)では、市長と司祭を除き、島の壮年の男たち全員がボートに乗り、ドゴールに合流するため英国に上陸した。
ロンドンのド・ゴールは、最初シーモア・グローヴ3番地のアパートに、ついで家族が着いてからはペッツウッドに住んだ。その後、7月24日になってチャーチルの好意で、カールトン・ガーデン(セント・ジェームス・パークの近く。同名の植物園がオーストラリアのメルボルンにあり世界遺産に指定されているが、それとは別)に建物一戸を自由に使えることになった。
7月24日から使えるようになったカールトン・ガーデンの建物↑
ついでに、17日にボルドーを発つ際に、レイノー首相が秘密金庫から手渡した10万フランが、今日の幾ら位に相当するかを計算してみる。アンリ・アムルーは1976年出版の本の中で、1940年と比べ物価は100倍になったと書いているから、それを適用すると1千万フランとなる。76年から2013年の間に物価はあらあら7倍になったとし、ユーロ換算では約6.5分の一だから、現在の金額で1千万€、円に換算すると13億5千万円という大金になる。
ド・ゴールは国際法に照らして合法的に亡命政府と軍を組織しようと意図した。ヴィシー政権からは当然のことながら、軍事裁判所が逮捕状を出し、後に死刑の判決さえ下されるのだが。
最初にド・ゴールの許に駆け付けたのは、エチエ・ド・ボワランベール中尉で6月19日のことだった。少尉はド・ゴールの官房長官となる。7月1日になると、アンドレ・ドヴァヴラン大尉が志願してくる。大尉は後に「パッシー大佐 Colonel Passy 」のハンドルネームで「自由フランス」の秘密情報局長となる。
ノミの市で見つけた古本「パッシー大佐と自由フランスの情報機関」(Guy Perrier 著 Hachette社 1999)によると、ドヴァヴラン大尉が志願して来た時のド・ゴールの執務室はサント・ステファンズ・ハウス Saint-Stephen's Houseの3階(日本式の4F)にあり、ボワランベール中尉の他だれもおらず、ガランとした薄汚い部屋だった。しかし、窓からはテムズ河と国会議事堂が見えビッグ・ベンの鐘の音がよく聞こえたという。ド・ゴールはやや冷たい態度でドヴァヴラン大尉との面接を行った。
「あなたは予備役ですか?」
「現役です。将軍」
「高級将校教育終了証は?」
「いいえ」
「出身学校は?」
「ポリテクニックです」
「動員の前はなにをされていましたか?」
「サンシール高等士官学校の特殊軍事課程で要塞の教授をしておりました」
「ほかに何か資格は? 英語を話しますか?」
「法学士の資格と英語は良く話せます。将軍」
「戦争中はどこにおりましたか?」
「ノルーウエイの海外派遣部隊におりました」
「では、テイッシエをご存知ですね。彼より古参ですか?」
「いいえ。将軍どの」
「では、あなたを司令部の第2、第3の室長に任じます。オルヴォワール。ア・ビヤントー(じきに会いましょう)」
この日から、パッシー大佐(ドヴァヴラン大尉)は1945年の終戦までド・ゴールに忠実に仕えた。
やがて、ルクレルク将軍、クーニッグ、ヴァラン、ド・シュヴィネ、などの軍人、さらにデザイナー、アヴァス通信社のロンドン特派員、俳優、詩人なども集まって来た。
ド・ゴールはゲリラ戦隊ではなく、正規軍を作ろうとしたのだった。6月28日にはロンドン司令部はド・ゴール将軍を「自由フランスの長」と認めた。この資格をもって、ド・ゴールは英国外務省と首相との交渉を開始したのだった。
「7月末、われわれの人員は7000人に過ぎず、これが英国で募集し得るすべてだった」と回想録に書いている(第一巻79p)。
(つづく)

