マーシャはアヴァロンにドクター・ピヨンの車で行った。私たちのラジオが真空管が切れたのか、一か月半前から音が出なくなったので修理に行ったのだ。
アヴァロンの旧市街にある家↑
アヴァロンでは、ドイツ軍の兵士と将校数名の自殺について人々は話を交わしている。銀行の金庫を開けさせると、ドイツ軍が徴収した数百万個の金貨が見つかった。農民は金塊を至る所に隠している。
だが、つい先日、農民たちは投機家に残らず買い占められてしまった。投機家は農民から、半年後には一文の価値も無くなるただの紙切れと交換に、500フラン・ルイ金貨をせしめたのだ。ホテル経営者と肉屋が破廉恥なボロ儲けをしている。特にホテル業者はドイツの金でしこたま稼いでいるのだ。
1月26日(日)
正午に、フォンテットから電話。アルコスからで、彼はパリからアヴァロンへ昨夜着いたのだが、ヴェズレイへ来るバスがなかった。(日曜は運行しない)それで勇敢にも徒歩でヴェズレイへ向かった。
天候は最悪で、彼はずぶ濡れになり、力尽きて、フォンテットで停まらざるをえなくなった。運よく、偶然飲みに入ったビストロが、私が良く知っていて、ウチにワインを納めてくれているデフェールさんのところだったので、アルコスにたっぷり酒を飲ませ、元気を回復させただけでなく、ロバに牽かせた荷車を貸してくれた。
荷車に乗り、アルコスはヴェズレイに、傘を振り回しながら、凱旋入城したのだった。私たちは、アルコスをマッサージしてやり、セーターを3枚も4枚も重ね着させて風邪を引かないようにしてやった。たっぷりした食事と夕方5時まで昼寝をしたので、すっかり元気を取り戻した。
彼は、パリの食糧難に愚痴をこぼした。でも、彼自身は、畑がある家で食糧難はしのげるのだ。
彼は、ドイツによるフランス企業:鉄道、自動車工場などの占有について話し、出版社のアシェットを押収しようとしていると語った。
――ジャン・リシャール・ブロック(脚注2)は、非常に不幸で、老いて気難しくなり、パリのどこかに隠れているという。デユルタンは、和解派の最も推奨に値しない新聞に記事を書いている。デユアメルは、相変わらずのドイツ嫌いで、狙われていて、十分に苦しんでいるが、なおも書き続けている。
ジュール・ロマンは、アメリカのラジオ放送を通じて、フランスの友人に呼びかけているが、友人たちは彼にいっこうに感謝していない。(ヴァレリーがデユアメルに言うには:<あの間抜けが! 私が彼になにをしたってのかね?>)
私はたぶん、二三日中に高田氏(脚注1)の訪問を受けるだろう。彼は、今自動車を持ち、東京(??)の大新聞の特派員なのだ。
アルコスはアヴァロンに着いた晩、爆撃があったと言う。
ジャンヌ・モルチエの不器用な交渉のせいで、ジャン・リシャールと馬鹿げた誤解が生じてしまった。手紙を書かねば。
(脚注1) 日本人彫刻家の高田厚博のこと。彼は改造社社長がロランを訪れた時にも同行し通訳を務めている。
(脚注2)ジャン・リシャール・ブロック、1884年、ユダヤ人の裕福な家庭に生まれ、1907年に教授資格をとりポワチエの高校で歴史の教鞭をとった。アンドレ・モロワの妹マルグリット・ヘルゾクと結婚。すぐに教職を辞め、統一社会党の活動家となる。第一次世界大戦に従軍、3度負傷した。1921年にはフランス共産党に入党。ロマン・ロランとともに「作家委員会」で活躍。1923年に雑誌「ユーロップ」を創刊。1934年2月の危機以後、人民戦線(Front Populaire)と反ファシスト運動のために活動。CVIA(Comité de vigilance des intellectuels antifascistes =反ファシスト、知識人による監視委員会)に加盟、また革命的芸術家・作家協会(AEAR)に加わった。1934年8月に、モスクワで開かれた、ソビエト作家会議に出席。ルイ・アラゴンとともに、コミュニスト日刊紙「ス・スワール Ce soire 」の創刊に係わり、1944年のフランス解放まで編集長を務めた。1946~47年国会議員に選出された。娘のフランス・ブロック・セラザンは1943年ハンブルグで斬首刑に処され、レジスタンスのヒロインとなった。もうひとりの娘、クロードは、亡命中のスペインの共和主義将校で詩人のアルチューロ・サラノ・プライヤと結婚している。
(つづく)
