武蔵野美術大学への通学路にはまだ面影が残っていると知らせて下さった「みーあ」さんと「キノコbp」さん、大阪育ち茨城出身埼玉在住の主婦作家、「紗都子」さま、それに森で迷わないためにはGPSを持って行くべきとアドバイスくださった「ばば」さまに、この場を借りて深く御礼申し上げます。
なかでも、大変詳しい調査結果を教えて下さった「大きな空の下で」の鏑木夏凪さんからのコメントとメッセージにお答えしたいと思い、ご教示くださった二人の画家の名前を検索してみた結果、いくつかの、とても貴重なことが解り、ブログ記事にして、みなさまと共有したいと思いました。
まず、中川八郎は小山正太郎の教え子という関係にあるので、師の小山正太郎から始めます。安政4(1857)年今の新潟県、長岡に生まれ、上京して、明治9年に工部美術学校に入り助手に取りたてられます。
9月にグレに滞在した浅井忠のことを書きましたが、小山正太郎は浅井忠と連帯して工部美術学校を退学し、「十一会」を作ったんですね。その後独りで画塾「不同舎」を作り、中村不折、鹿子木孟郎らを教えました。
明治33年、パリ万博の出品監査員を務め、渡欧。ロンドンでは偶然、夏目漱石と同じ下宿に滞在しました。
ネットで調べて、気づいたことですが、代表作として挙げられている絵が、ポーラ美術館所蔵のものと、新潟美術館の所蔵のと2枚あるようなのです。
ポーラ美術館所蔵のサイトで見つけた絵は、タイトルが「濁醪療渇黄葉村店」(1890、明治23年)という漢文名で、「どぶろくが喉の渇きを癒してくれる黄葉の美しい村の酒店」という意味なんだそうです。
夏凪さまがご指摘の府中美術館が「バルビゾンからの贈物」というタイトルで開催した企画展にも、この絵が展示されたようで、ネットには、この絵が中川八郎(1879~1922)の作であるかのように誤解しかねない注で、出てます。
この絵は鷹狩の主従が田舎道の酒店で酒を購う光景を描いたもので、オランダの風景画を思わせるこんな油彩画が、この時代に日本人の手で描かれたというのが驚きでした。フランスの印象派や、バルビゾン派もオランダの風景画の影響を受けていますね。
ここで、師の小山が浅井忠と一緒に、なぜ工部美術学校を、集団で退学したか? を振り返ってみます。
小山と浅井が入学した当初の工部美術学校の絵の先生は、イタリアから招聘したアントニオ・フォンタネージという中年の画家でした。1876年の来日です。浅井も小山もフォンタネージを尊敬し生涯の師匠としています。
今回、鏑木夏凪さんに頂いたコメントをきっかけに調べて解った重要なこと。「フォンタネージはバルビゾン派の影響を受けた画家だった」ということなんです。バルビゾン派の絵、コロー、ミレー、テオドル・ルッソー、ドービニイなどの絵を模写しなさいと薦めたそうです。
工部美術学校は、やがて岡倉天心が東京美術学校をを作り、フェノロサが招かれ、洋画排斥運動が起こり、廃校になりますが、その辺の動きを感じていたフォンタネージは、イタリアに帰ってしまいます。後任に来日した先生は、若い上に、日本人画家を馬鹿にしたようなとんでもない先生で、最初に生徒の前で「日の出」の絵を描いたりして創造の情熱に燃えたぎっていた日本の若い洋画家たちを失望させ、ついに反逆の嵐を引き起こしたのでした。教え方もいい加減だったらしい。こんな、われわれを馬鹿にしたいい加減な教師に学べるものか! 浅井や小山はストを打ち、11人が揃って退学したのでした。
もう一つ、日本の洋画とバルビゾン派の関係のことを。
時代は、すこし現代に近づきます。
佐伯祐三のことを何回かにわたって書きました。佐伯が一旦日本へ帰り、前田寛治、里見勝蔵らと「1930年会」を作ったことも書きました。
この「1930年会」の名は、バルビゾン派の旧称「1830年派」に倣って名づけられたそうなんです。
「1930年会」は、やがて1930年11月に、二科会、春陽会、国画会から脱会した9名の画家(児島善三郎、林重義、林武、川口軌外、小島善太郎、中山巍など)、フランス留学から帰国した福沢一郎を加え”既存の団体からの絶縁”、”新時代の美術の確立”を宣言して「独立美術協会」を設立し、第1回独立展を1931年1月に開きます。
バルビゾン派は、明治期から徳富蘆花、夏目漱石などの紹介によって広く日本人に親しまれてきました。
日本には、もともと「南画」の伝統があったので、バルビゾン派が受容される下地があったのだ、とどこかで読みました。
下の絵は、グーグル画像で見つけた中川八郎の絵ですが、木の描き方などは、コローやドービニーを思わせます↓
そして、これなどは明治の風景をシスレーが描いたのではとさえ思わせます↓
岩波書店がロゴに「種まく人」を選んだのは1933年のことで、プロレタリア文学の影響が考えられますが、ミレーが描いた農民の姿は、ゴッホにも影響を与え、モネの自然の色彩と光の探究へと向かわせました。
ここで、ひとつ仮説なのですが、バルビゾンと大正期の日本文化の関係の断片として。
バルビゾンにはミレーの家の斜め前に、現在も営業してる古いコッテージ風の高級ホテルがあります。「宝島」などでお馴染みの英国作家スチーブンソンが滞在し奥さんになる女性と出会った場所らしいのですが、日本に関係が少しあります。それは、このホテルに昭和天皇が皇太子時代にお忍びでお泊りになったということなんです。
ロンドンをご訪問された帰りに「フランスの田舎が見たい」と仰せられて、選ばれたのがバルビゾンだったんですね。
ここからが推測ですが、雑誌「白樺」が大正時代に日本の知識人に与えた影響のなかにバルビゾン派の画家たちがいたのではないか。
コロー、そしてミレーが描いた農民と自然との調和した生活風景。
白樺派はご存知のように、志賀直哉、武者小路実篤、それに有島武郎、有島生馬、里見敦の三兄弟が中心になって発行された文芸雑誌です。セザンヌを日本に最初に紹介したのが有島生馬で「白樺」誌上でした。
ところで、志賀直哉は、ある時、日本語は曖昧だから、廃止してフランス語にしてしまえ!と暴言を吐いたことで有名ですが、一時期、昭和天皇の皇太子時代に「国語の個人教授!」をしてもいました。
めのおの仮説は、昭和天皇に「フランスの田舎を是非ごらんになりますよう」にとお勧めしたのは志賀直哉ではなかったか? というものなんです。
皇太子時代の昭和天皇が、なぜフランスの田舎、バルビゾンをご覧になりたかったのか? ご興味ある方、なにかご存じの方がおられれば、ご教示大歓迎です。
まあ、その辺の詮索よりも、鏑木夏凪さまが日本の自然主義作家が行った自然描写の方法とバルビゾン派から始まる、自然と絵画の関係、さらに拡大して、われわれの生活と自然環境の関係とを、めのおも、もっと追求すべきと思います。
鏑木さま、ありがとうございました。


