フランスと日本人画家 その③ | 雷神トールのブログ

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浅井忠についてもう少し書きます。

浅井忠は佐倉藩、開明派の主君を持ちながら幕府側に付き賊軍と呼ばれた藩の藩士の息子に生まれた。江戸大地震(安政の大地震)の八か月後だったという。安政の大地震が起こった時、浅井家は、まだ佐倉にいた。

大地震の数か月後、浅井忠の父、常明は江戸詰めになった。佐倉藩の江戸屋敷は、上中下と3つに別れていて、浅井の家は中屋敷に住んだ。佐倉藩の中屋敷は、歌舞伎座の裏、木挽町にあった。浅井忠は木挽町で生まれ、5・6歳になるまでの幼少期をここで過ごした。

1861(文久元)浅井家は、木挽町の中屋敷から日本橋浜町の佐倉藩上屋敷に移り住んだ。忠が絵を描き出したのはこの頃からだったという。

時代は飛ぶが、浅井忠は、フランスのグレーから病床の正岡子規あてにグレーの石の橋の絵を描いた絵葉書を送っている。
「昨日虚子君の消息を読み泣きました」。
子規が浅井に送った雑誌「ほととぎす」に高浜虚子が書いたものを読んで、子規の病状が重いことを知り絵葉書の冒頭にこう書いたのだった。

子規と浅井はジャーナリストの陸(くが)羯南(かつなん)の紹介で知り合った。浅井忠が渡欧する時の送別会には、高浜虚子をはじめとする俳人、画家が十人ほど、子規庵に集まった。当時、浅井忠が住んでいた下谷根岸の家は子規庵の近くにあった。「先生のお留守さびしや上根岸」と子規は惜別の句を送った。

すこし時代が飛ぶが、明治33年10月末、留学先のロンドンに向かう途中の夏目漱石は、浅井忠のパリのアパートを訪ねた。二人を引き合わせたのは正岡子規だったようだ。

「『パリス』ニ来テ見レバ其繁華ナルコト是亦到底筆紙ノ及ブ所ニ無之(これなく)、就中(なかんずく)道路家屋等ノ宏大ナルコト馬車電気鉄道地下鉄道等ノ網ノ如クナル有様寔(まこと)ニ世界ノ大都ニ御座候(中略)女抔(など)ハクダラヌ下女ノ如キ者デモ中々別嬪(べっぴん)有之候」
これは、漱石が鏡子夫人に宛て、パリに着いた翌日、書き送った手紙。
浅井忠に会いに漱石が最初に出かけた日は浅井がいなかったので、それから数日後にもういちど出かけた。

明治35年の6月末、今度は帰国間際の浅井がロンドンの漱石の下宿を訪ね、そこで数日間泊まった。
「只今巴里より浅井忠と申す人帰朝の序(ついで)拙寓へ止宿、是は画の先生にて色々画の話抔(など)承り居候」と早速鏡子夫人宛てに書き送っている。

漱石は明治40年、浅井忠の没後まもなくして、浅井の思い出をこう話している。
「私が先年倫敦(ろんどん)に居った時、此間(このあいだ)亡くなられた浅井先生と市中を歩いたことがあります。その時浅井先生はどの町へ出ても、どの建物を見ても、あれは好い色だ、これは好い色だ、と、とうとう家へ帰るまで色尽くしで御仕舞になりました。流石(さすが)画伯だけあって、違ったものだ、先生は色で世界が出来上がってると考えてるんだなと大いに悟りました」

 以上の引用は、太田治子著「夢さめみれば」日本近代洋画の父・浅井忠 (朝日新聞出版 2012年1月)から孫引きさせて頂きました。
 
   (つづく)


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