長編小説 飛龍幻想 8 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

 校庭を小さな竜巻が横切ってゆくのを見ていたのは、渉が「見る」ことに対して人一倍の関心を持っていたからだった。視覚を通して外界が渉の意識に入ってくる。自意識というものを思春期に自覚してから渉は、知覚を通じて行われる認識ということに最大の関心を持った。絵が渉の心を常に捉えていた。

「いま僕に見える外の世界の色や形、それを仮象と呼んでおこう。外の世界が、その仮象と同じかどうかは僕にはわからない。だけども、僕には、仮象しか見えないのだから、それを真の姿と信じるほかない」

 数年前から書き始めた渉の「雑学ノート」には、上のような書き出しで以下のような哲学的断片が書かれている。

「客観的に実証できなければ真にあらずというのは一面的な真理だと思う。世の中には証明できないものがたくさんある。ただ、夢の世界、想像の世界が現実に呼応していると信じるのは妄想患者、夢遊病者、狂信家のすることで、僕はそうはなりたくない。

 「眼に見える物」の存在が大事なのだ。眼に見える物は手で触ることが出来る。たいていの場合それは「固い物質」で出来ている。眼で見るだけでなく、手で触れることによって人間は物質世界、自然の抵抗を知る。そうした「外界=もの」の抵抗と闘ってきたのが人間の歴史だ。物という外界とぶつかることで人間の認識は深まる。

 世界は「空」なりといった日本の伝統的虚無思想に僕は反感を覚える。手で触ってみれば世界は頑固な物質として「存在」してることを否応なく知らされるではないか。

『存在と無』を読まねばならない。『存在』などと訳すから難しく感じるので、原語では『エートル=être 』動詞の原型だ。『私はここにいる』『私は学生である』つまり『be動詞』ってことだ。ということはこの難しそうな題名の分厚い本は、[To be or not to be ]『あるべきか、あらざるべきか』あのハムレットの命題、『生きるべきか死ぬべきか』と同じことを、扱かってるってことだ。ただ扱い方が哲学的なだけだ」
                                   (渉の雑学ノートより)

   (つづく)

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