謎が解けた | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

謎が解けた!!

どんな謎かって~と、パリのパレ・ロワイヤルについてなんだ。

18世紀に百科全書を編集したドニ・デイドロに「ラモーの甥」って小説がある。

バロック音楽では知られているラモー。その甥っ子と哲学者の私がパレ・ロワイヤルのカフェで出会う。甥っ子はある時はめかしこんでるが、別の日にはボロをまとったホームレスの格好をし馬小屋で寝たのか藁を髪の毛につけたままだったりする。

パレ・ロワイヤルにはカフェが並んでいて、常連がチュスを争っている。私も脇で岡目八目。18世紀フランスの啓蒙主義の時代に、人々はここに集まり、革命談議をした。カフェーこそフランス革命の揺籃なんだって。

でも、カフェが、王宮の足許にある。たとえば、京都の二条城とか御所の敷地内に茶屋が並んでる!なんて光景をちょっと想像してみてください。ましてや皇居に!!日本じゃとうてい考えらんない。そこがフランスなのかな~? 若い頃は、真面目に想像してはみたが、どこか腑に落ちなかった。

だって、ルイ14世が幼少の頃、ここパレ・ロワイヤルは王宮で、フロンドの乱で民衆が乱入した時、ルイ14世はベッドに寝た振りをして難を逃れたというじゃないか。

カフェくらいは、まあいいとしよう。どしても腑に落ちないのは、娼婦が居たってこと!!化粧の匂いを漂わせた妖艶な奇麗どころが柱に凭れて、通りすがりの男に流し眼を送る。かのデイドロ先生も、ちらと、「あの娘は可愛い……、いやこっちの方が」なんて品定めを「ラモーの甥」に書いたりしている。

いったい、なんだって、国王がおわす宮殿の回廊に娼婦が出入りしたり、娼館があったりするんだ?フランスって、よっぽど色好みの変態な国だったのか?  と、正直これが長年の「謎」でした。

ルイ・フィリップについて調べてるうち、その「謎」が解けたんです。

そうだったのか。太陽王ルイ14世の17世紀が終わって18世紀になると、パレ・ロワイヤルは王宮ではなくなって、オルレアン公爵の住居になった。

ルイ・フィリップの父親、オルレアン公爵ルイ・フィリップ2世ジョセフこそ、自らを平等王と称し、革命前に最初に国王に逆らい、自由主義貴族の代表を自任し、王妃マリー・アントワネットを盛んに中傷し、その政敵となったお人。フランス革命が勃発するや、歓迎してバスチーユ襲撃を誘発した。蜂起した民衆は彼の宮殿パレ・ロワイヤルから隊列を組んでバスチーユを目指した。

三部会の議員として早くから第三身分に加担、貴族でありながら国民議会に合流した。

そして、1793年1月18日、 ルイ16世の処刑に賛成票を投じたのもオルレアン公爵ルイ・フィリップ2世ジョセフ(
フィリップ・ドルレアン)その人に他ならない。

そう、ちょうどこの日の夜、ルイ16世の元護衛官パリスが処刑に賛成票を投じた
フィリップ・ドルレアンを暗殺しようとしてパレ・ロワイヤルに忍び込んだ。だが、フィリップには近寄れず、運の悪いことに、そこのレストランで夕食を終え休憩していたルペルチエ・ド・サンファルジョーをやはり国王処刑に賛成した理由で暗殺してしまう。

刺殺者パリスが身を隠したのは、パレ・ロワイヤルの馴染みの娼婦の家だったんだ。自慢げにルペルチエ暗殺を大声で語って聴かせたもんだから、外まで聞こえ、パリスは共和派に逮捕されてしまう。

ここにも娼婦が出てくるのですよ。いったいどうなってんだ??!!!

その謎がついに解けたのであります。

平等王ルイ・フィリップ2世は「私生活が放蕩かつ無節操で、民衆に解放された自分の宮殿パレ・ロワイヤルは歓楽街として使われ、政治的な危険分子はもちろん、娼婦の溜まり場にもなった」のだと。

フランスの田舎暮らし-joseph


そういうわけやったんか! しかしまあ、平等王と自称はしたものの、ルイ・フィリップ2世は国王にはなれなかったんだ。

血は争えないというか、「自宅を娼婦に開放してまでも!!」民衆の肩持つポーズをとった王位継承権保持者を共和派は「胡散臭いヤツ」と見たんだね。

息子のルイ・フィリップは若い頃、ジャコバンクラブに入り、軍に入隊し、デユムーリエ将軍の下で1792年にはヴァルミーの戦いに参加して勝利するんだけども、その後のオーストリアとの戦争に負け、司令官のデユムーリエ将軍は、寝返って国民公会転覆のためにパリに進軍する。ルイ・フィリップも一緒だったんだね。

そのため、父親の平等王ルイ・フィリップもジロンド派から王位を狙ったと嫌疑を掛けられ、財産は剥奪、家族もろともマルセイユのサン・ジャン城に幽閉されてしまう。1793年11月6日の夕刻、革命広場(現コンコルド広場)で断頭台で処刑されてしまった。

オルレアン公爵として歴史に登場する人物は、少なくとも3人いる。それがみんなフィリップが付くのでややこしいのです。

最初の人物は、フィリップ・ドルレアン(またはフィリップ・ド・フランス)でルイ14世の弟。すなわち、ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュの間の次男。彼は、幼い時、国王となるルイより強くならないよう女装させ、女の子のように育てられたため、
成人してからも宝石や衣装で身を飾るのが好きで、ホモセクシュアルになってしまう。これがフィリップ1世ですね。


フランスの田舎暮らし-フィリップ

                 幼きルイ14世(左)と女装した弟のルイ・フィリップ↑

フィリップ1世は同性愛者だったけれど、ちゃんと子供は作ったんだね。
その息子がフィリップ2世ジョセフで、平等王(フィリップ・エガリテ)となる。

フィリップ2世の息子のルイ・フィリップは、処刑されてしまった父の跡を継ぎオルレアン公爵を襲爵したものの、スイスへ亡命、地理学、数学、近代文学の教師をして薄給で暮らした。

フランスの田舎暮らし-louis-Philippe


その後も、1795年にはハンブルグへ、1795~6年にはスカンデナヴィア諸国へ、1797~1799にはアメリカ合衆国へ、1801~1807にはロンドンへと流浪の生活を続けた末、ナポレオン失脚後の1814年に、妹アデライードとフランスに帰国した。

なんともはや。祖父や曾祖父の時代に、オルレアン公爵といえば地球の半分の領地を所有していた世界一の金持ちだった。それがこの有様。北アメリカの南部、ニューオルリンズは「新オルレアン」という意味の英語読みだし、カナダを保有していた。広過ぎて管理が出来ないので、二束三文で売り飛ばしてしまったのだから、放蕩三昧の息子が出てもおかしくね、てなもんや。


1830年の7月革命で、ルイ・フィリップはラファイエットら自由主義者、大資本家、銀行家などブルジョワジーに擁立され国王となった。「7月王政」と呼ばれる。ルイ・フィリップは「フランスの王(roi de France)」ではなく「フランス人の王 (roi des Français)」と称した。

フランスの田舎暮らし-フィリップ2


絶対王制を否定し、立憲君主制を築き、責任内閣制を
採用し、チエールやギゾーを首相にした。

フランスに産業革命をもたらし、同時に帝国主義政策に先鞭をつけた。

1830年にシャルル10世とポリニャックが始めたアルジェリア出兵を、シャルル10世が玉座を追われ英国に亡命した後も、
ルイ・フィリップが引き継ぎ、フランス人の犠牲を減らすため外人部隊を作ったりして、アリジェリア全土を征服し、1834年にはアルジェリアを併合してしまった。


 (つづく)

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