じゃあ、そのちょっと後の、日本の「咸臨丸」はどうだったんだ?
同じハイブリッドでも、「咸臨丸」はスクリューでした!!
脱線ついでに、調べたことを書くと
「咸臨丸」は江戸幕府が所有していた洋式の「スクリュー」を装備した初の軍艦で、スクリューは、入出航時に使用され、航海中は抵抗を減らすため水線上に引き上げる構造になっていた。
1855(安政2)年、オランダのキンデルダイクに発注・起工、1856年進水、
1857年就役、1871年沈没とある。
排水量620t、 全長48.8m、全幅8.74m、3本マストの帆。100馬力の蒸気機関
燃料:石炭、 最大速:6ノット(10km/h)、砲12門
1860年、日米修好通商条約の批准書を交換するため、遣米使節団を乗せたアメリカ軍艦ポーハタン号の別船として太平洋を横断した。
旧暦1月13日品川を出航、 旧1月19日に浦賀を出港、旧2月26日(太陽暦3月17日)サンフランシスコに入港。
(艦長)勝海舟 (実際の資格は軍艦操練所教授方頭取)
(提督)木村摂津守 (軍艦奉行)
(通訳)中浜万次郎(ジョン・万次郎)
福沢諭吉
勝海舟を艦長、木村を提督と呼んで通したのはジョン万次郎だった。
こんな小さな船で太平洋を横断(往復)したのだから驚異であり賛仰に値する。
実際は、技術アドバイザーとして、ジョン・グルック大尉ほかアメリカ人の乗組員の助けを借りての航海だった。
司馬遼太郎が「明治の父」と呼んで敬意を表した小栗上野介は? ポータン号に乗船してたんだね。
正使は新見正興で、小栗は遣米使節目付(監視役)。この機会に小栗はフィラデルフィアで通貨の交換比率の見直し交渉をしている。
小栗のもうひとつの功績は横須賀の製鉄所(後の造船所)を建設したこと。フランスの技術者を招聘して着工した。江戸城無血開城の勝と西郷の交渉の際、
勝は西郷に横須賀の製鉄所は日本の財産だから爆破せぬようにと頼み、西郷も同意した。東郷平八郎は後に日露戦争に日本が勝てたのは、小栗が作った製鉄所のお陰だと語った。
小栗はポータン号からナイアガラ号に乗り換え、大西洋を横断し地球を一周して江戸に帰った。
徳川慶喜の大政奉還に反対し、最後まで薩長軍と戦うべきだと主張し、箱根で薩長軍を足止めにしておき、駿河湾に幕府海軍を侵入させ艦砲射撃で撃滅できると唱えた。慶喜はこれを容れず大政奉還した。
長州の大村益次郎は、もしこの小栗の案が実行されていたら、江戸開城も明治維新もなかったろうと後に語った。小栗は幕府勘定方で財政改革をした後、辞職し群馬の国元へ帰って隠棲した。しかし薩摩の小隊が小栗他数名を逮捕し、裁判にもかけずに河原で斬首してしまった。
(つづく)


