フランスとアルジェ保護領との間の紛争の原因は、フランス革命中の総裁政府時代(le Directoire : 1795-1799)に遡ります。
イタリアのリヴルヌ(Livourne )出身でアルジェで商売を営んでいたユダヤ人商人、バクリ家とビュスナック家は18世紀中ごろ、後にナポレオン1世となるボナパルトがイタリア遠征した際に、フランスの兵士を養うため大量の穀物を供給しました。
ちなみにこのリヴルヌ(Livourne )という街は、あのエコール・ド・パリの画家モジリアニが生まれた街です。モジリアニはユダヤの比較的裕福な家庭の出ですね。
ボナパルトは、このふたりの商人が差しだした請求書が高すぎると見て支払いを拒絶しました。
1820年には、王政復古になっていて、ルイ18世(1814~1824在位)が総裁政府の借金を半額にさせました。太守のデイは、リヴルヌの商人バクリに返すべき25万フランの支払いをフランスに迫りました。太守はフランスには借金を返済する意思がないと考え、フランス領事に冷たく対します。
しかし、もっと重大な事が太守の力が及ばないところで起こります。フランスは、ラ・カル(La Calle) というチュニジアとの国境に近い漁港に13世紀から商業用倉庫を租界として持っていました。天然の良港で、マルセイユから出航した漁船がシケの時に避難したり、珊瑚の漁に立ち寄ったりしていました。
フランス領事デユヴァルは、ラ・カルに要塞は造らないと約束していました。ところが、フランスはラ・カルに要塞を造ってしまいます。
太守は、フランス政府に文書で説明を求めましたが返事がありません。そこで
太守はフランス領事に口頭で説明を求めることにしました。フランス領事は尊大な態度をとります。
太守は憤り、手に持っていた「蠅叩き」でフランス領事デユヴァルの顔をぱっと払い侮蔑の仕草を示しました。
この「ハエ叩き」ですが、上の絵↑では扇形のハエ叩きが描かれています。
しかし、別の説では、昔日本でも僧が持っていた柄の先に馬の毛や麻の房がついた払子(ほっす)と似た形のものだったといいます。もとはインドでハエを追い払うのに使い、それが日本で払子になったといいますから起源は同じですね。
1827年4月30日のことでした。こうしてフランスとオスマン・トルコ保護領との外交関係が途絶えました。
王政復古時代(シャルル10世:在位1824~1830年7月29日)のフランス政府はアルジェリアを征服し、太守の無礼に懲罰を加えるべきと決めます。フランス領事とフランス人居留民は本土へ船で戻ります。戦争大臣クレルモン・トネールは軍隊を派遣すべしと唱え、首相のヴィレルと皇太子は反対します。
アルジェ封鎖が提案されましたが、効果はほとんどありませんでした。フランス艦隊の喫水線が深く岸から遠くの沖に待機せねばならず、現地人の舟が沿岸すれすれに航行するのを防げなかったためです。
1830年1月31日、内閣はアルジェリアへの軍隊派遣を決定します。
借金の踏み倒しと「蠅叩き」による侮辱が、フランスによるアルジェリアの植民地化を推し進めるきっかけとなったなんて、人間も国もメンツとかプライドとか一見つまらないことが原因で「けしからん」「懲らしめろ」と戦争を仕掛け、後々まで禍根を残す歴史を作るんですね。
(つづく)




