一八八五年に明治政府初の文部大臣となった森有礼は当時日本人が日常使っていた言葉を「国語」とすることをやめ、英語を採用すべしと唱えた。森は大臣就任の前に、アメリカ人に向けて英語で書いた「日本の教育」の中で、日本人が英語を採用するのが「国際社会において、日本の独立を保持する「要件」だと述べた。
(今日の記事はほとんどが「水村美苗著 - 日本語が亡びるとき」によるもので、本来なら事前承認を要する引用は避けて要約に留めることをお許し願います)
森有礼の英語採用論は退けられ、文部省は英語を国語として採用する方向へは向かわず、日本語を近代国家の国語足りうる言葉へと創り直す方向へと向かった。
重要なことは、彼ら(日本語を改良するのを国家から任せられた人々)は、何と、日本語の「書き言葉」から漢字を排除しようとしたのだった。
彼らは「漢字」という「外の言葉」を象徴する文字を排除し、日本語から、表意文字を排除するのを理念とした。
彼らにとり、もっとも進化を遂げた表音文字とは、子音と母音を書き分け、発音記号に限りなく近い文字、ローマ字アルファベットだった。アジア・アフリカに広く植民地をもっていた国 - ヨーロッパの列強がすべてローマ字を使っていた。
それに対し、表意文字を代表する漢字を使っている国、清。その清国は阿片戦争に敗北し欧米列強の半植民地と化していた。漢字こそ東アジアの後進性を象徴する文字だとの議論が大手を振ってまかり通った。
第二次阿片戦争が終わった一八六〇年、前島密は「漢字御廃止之儀」を十五代将軍徳川慶喜へ上伸した。
日本における表音主義の中心となる上田万年が、表音主義に基づき、漢字を排除した日本語を創るべきだと文部省に積極的に働きかけ、文部省が国語調査委員会を発足させたのは一九〇二年のこと。
森鴎外のような識者は、文部省の唱える漢字排除論に反対した。それなのに、文部省は「仮名文字論者」「羅馬字論者」「新国字論者」などの表音主義者を招集し続け、日本語の改良に当たって、徐々に漢字の数を制限してゆき、最終的にはまったく漢字を使わない「書き言葉」にするのを理念として掲げ続けたのであった。
以上長々と要約を続けたが、要は「常用漢字」も、この明治以来の漢字制限、表音主義の延長にあるとめのおは理解しているのです。