連載小説 「異土に焦がれて」 35 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

 ダニエルは、アンナと小部屋の棚の上を隅々まで掃除器を掛け、さらに雑巾がけして綺麗にし

た。次に棚の下に溜まったゴミを箒で掃き出した後、掃除器を差し込んで細かなゴミや埃を吸い

取った。空になったポリのバットを新しい希釈液で満たす作業をこれからやるという。バケツに半

分水を入れ原液を少しずつ加えて棒で攪拌し、棚に乗せたバットに注ぐ。原液をバケツに注ぐに

はタンクを抱えて少量づつ静かに注がないと爆発して危険なので、十キロ近くあるタンクをじっと

保持していなければならない。結構な力仕事なのだ。啓は頼まれて、ゴムの手袋を填めた。


 アトリエに原液タンクを取りに行った啓は異変に気が付いた。棚の上から液がポタポタと下の机

に垂れ落ち、机に並べてあった銅版を濡らしているではないか。


「たいへんだ! 液が流れ出して銅版に落ちてる」


 啓が叫ぶとアンナとダニエルが小部屋から飛び出して来た。


「ああっ! あたしの作品!」


 ダニエルは手袋を填めた手で、大急ぎで銅版に飛びつき、濡れた五枚の版を奥の流しに運び蛇

口の水を掛けた。その間、啓は棚から原液タンクを降ろした。ポリタンクの底近くから液が滲み出

ていた。滲み出た液が棚板を伝い下の机に垂れ落ちていた。


 机には仕上がった銅の原版が置いてあった。彫りを終え刷りを始めたばかりの原版だった。ダ

ニエルが急いで水で洗ったが、既に遅く、銅版は無残に腐食されていた。刷りの最中なので保護

のグランドも掛けてなく版面全体に腐食が進んで、修復不可能な状態になっていた。


 ダニエルの作品が三枚、アンナのが二枚、被害に遭った。三人は起こった事故の重大さに愕然

として立ち竦んだ。


 「ああ。ひどい。なんてことが起きたんだ。あたしの大事な作品が三っつもオシャカになるなん

て……」


 ダニエルは手の施しようも無く爛れた五枚の銅版を机に並べ、溜息を吐きながら眺めていた。悄

然と佇んだまま、自分とアンナが丹精込めて作った作品が原液で無残に損なわれた姿を青ざめ

た顔で見降ろしていた。


「あれほど注意してと言ったのに。液を棚に乗せるなんて信じらんない。絶対やっちゃいけないこ

とよ」


 ダニエルはやっと顔に血の気を取り戻して言った。


「床に置く場所がなかったんです」


「タンクを重ねて置けばいいじゃないよ」


「はあ。すみません。取り返しのつかないことをしてしまいました」


 啓はうなだれて仕方なくそれだけを言った。


 棚から滴がまだ垂れているので、アンナが手袋を填めた手にスポンジを持って小部屋から出て

来た。啓は腐食液のタンクを小部屋のシンクの上へ移し、棚の下の空いたスペースへ椅子を置い

た。椅子に乗り棚を見たアンナは、何かを見つけ手を伸ばした。


「こんなのが乗ってたわ」


 アンナは銀色のスクレーパーをつまんでいた。


 スクレーパーがポリエチレンのタンクを切り裂いた。啓がタンクを押し上げた棚の上にはスクレー

パーが乗っていた。下からはそれが見えず、タンクと壁の間に挟まったスクレーパーの鋭い刃が

タンクの底近くのポリエチレンの肉を切り裂いたのだ。


「棚にスクレーパーが乗ってたのがいけなかったのよ。下からは見えないし」


 アンナが明るい声で啓を庇い慰めるように言った。


「この三枚は傑作なんだ。刷りを慎重にやろうとして置いといたのが間違いだった」


「こわれちゃったものは仕方がないわ。取り返しがつかないんだから。これ以上の作品を作るしか

ないわね」


 アンナがまだ失った作品にこだわっているダニエルを諌めるように、そして自分を勇気づけるよう

に言った。


「これ以上のモンを作る気力なんかないよ、あたしゃ。畢生の大作と自信があったのに」 啓は作

品を作る苦労がわかるだけに、ダニエルが傑作と信じた作品が事故で壊れされ、その喪失感が

どれほど深いかが理解できた。自分の身に起きた不幸も同然と感じ、二人の作品を壊したのは自

分の不注意からだったと自責の念に打ちのめされていた。


「ごめんなさい。どんなにあやまっても取り返しがつかない事をしてしまいました。作品を壊してし

まった以上取り戻すことはできませんが、なんとか少しでも償いをしたいと思います……」


「償いったって。壊れちゃった作品は戻ってこないし、作り直すこともできないんだよ」 啓はダニエ

ルとアンナに頭を下げ、黙ってうな垂れているよりほか仕方がなかった。自責の念から自分を救う

ように、心の中で啓は、ダニエルとアンナにいつか必ずこの償いをしなければと祈りのように繰り

返し唱えるのだった。


   (つづく)


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