都会と田舎 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

ポンデザールの上から初春の陽光に照らされたシテ島の光景を眺めて、都会と田舎の違いはなんだろう考えた。



フランスの田舎暮らし-ポンヌフ


パリが好きなのは、何度も書くが、あちこちに田舎の趣を残してるからと思う。

シテ島のここからの眺めはパリでもいちばん美しい。心を魅するものがある。ポエジーがある。ポエジーとは何かについてはいろいろあるし、人によって違うだ ろう。めのおが感じるポエジーは都会的なもの=人工的なもの、と田舎風のもの=自然を感じさせるもの、の対比があって双方が強調されるときにいっそうポエ ジーを感じる。

パスカルの言葉に「幾何学の精神と繊細の精神」というのがある。
都会は建築物の集積であり、建築物はほとんどが直線でできている。幾何学的と言ってよい。これに対して田舎は自然の野や丘や牧草地や林で形作られ不定形な曲線、または無数の沁みや引っかき傷のような模様からなっている。この模様を感じ取るには繊細な精神が要る。

めのおが高校生のころ建築家を志していた兄が、フランスにはル・コルビジェという偉い建築家がいると話していた。「伽藍は白かった」という大判の本を大切そうに持っていた。最近、この本が文庫になったのでめのおも買って読んだ。

ル・コルビジェはスイス人だがフランスで活躍した。有名なロンシャンの教会を設計した。1960年代、戦後の復興期、集合住宅がフランスで盛んに建てられたが、そのモデルとなったのはコルビジェがマルセイユ近郊に建てた集合住宅だった。

集合住宅の良否は
社会的に最近でも議論が続いているが、「伽藍は白かった」を読むと、前半は、なんのことはないニューヨークの摩天楼に対するコルビジェのオマージュではないか。

フランス人は政治家といえども審美的なものを尊重するので、ポンピドー大統領はモダニズムが好きだったが、高層ビルはパリ市内ではモンパルナス・タワーなど幾つかの例外を除いて禁止した。

その代わり大企業の高層ビルをデファンスに集め、ここをビジネス地区にした。
めのおは仕事ではたびたびデファンスへ行ったが、このコンクリートと鉄骨とガラスの集合体にポエジーは感じない。

いま最後の推敲をして骨と皮だけになりそうなまでにバッサバサ削られた小説にも書いたが、戦後ヨーロッパ絵画の
主流の抽象画も、モンドリアンのような幾何学的抽象ではなく、人間の視覚的記憶に残る自然界の形を尊重した抽象が好まれている。

リリカル・アブストラクト、もしくはさらに具体的にタッシスム(沁み主義)とも呼ばれる。ドイツのナチに抗してフランスへ移住しナチス・ドイツと戦って右足を失ったドイツ人の画家、ハンス・アルトウングのことを
以前このブログに書いた。

女流画家ではタッシスムの大家ダ・シルバがいる。

パリで観光客で賑わう場所は、エッフェル塔、シャンゼリゼ。パリ万博の名残の場所。
エッフェル塔は産業革命が進行し、パリが華やかな商業の中心として人々の
消費の欲望を満たす街となった時代の象徴。

第2帝政期、ナポレオンIII世の時代にその頂点に達した。そんな時代をデカダンの眼をもって、また一方で快楽への欲望を認めながらも人間社会の行く末に
絶望的な眼差しを投げかけ遠い未知の世界への遁走を詠った詩人たちが、ボードレールに始まり、マラルメ、ランボーと続く象徴派詩人たちだ。

文学探求は個人的に進めるとして、産業経済的に雑駁を恐れず言うと、都会は商業、第三次産業、サービス業を主な活動としているのに対して、田舎は、農業、林業、漁業など第一次産業の世界。自然に左右されることが多い経済活動をしている。

産業革命以後、自然に左右されることを嫌って企業家は工場を建てた。工場は建屋により自然界と隔離され内部の活動は、理論的には100%管理できる。だが、そう思うのは幻想に過ぎず、人間は自然界の脅威からいまだ完全に抜け切れてはいない。

パリは自然を取り込んだ都市美を確かに実現している。古典的な建築物に樹木の自然な形、セーヌ河という自然を確かに取り込み制御している。

幾何学の精神に「繊細の精神」を対比させたパスカル。この天才の繊細の精神には「人間は考える葦」と映ったし、宇宙に眼を向けたとき、「この無限の空間の永遠の沈黙は私を畏怖させる」と慄きを隠さない。

  (つづく)

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