こりゃたまらんと思ううち、こんどは高さ10mほどもあるボーリング用の柱を立てて掘った穴にコンクリートを流していました。どうやら、隣の養老院が建増しを決め、基礎工事が始まったようです。
ところが、1月31日に雪が降ってからというもの、気温は下がる一方で、とうとうマイナス5℃以下の日が10日も続きました。その間、工事ができないので、冷凍倉庫で暮らすようでしたが日々静寂でした。洗濯場の配管が凍って洗濯機が動かなくなるというハプニングがありましたが。
一昨日から、気温はようやくプラスに転じ、洗濯機の排水ポンプも回るようになってやれやれと思うのも束の間、工事再開。朝からドスドスと地鳴がしています。
さて、小説の、「言葉の背後にある現実」。これが一番難しいですね。筆者の体験、歴史的事件、恋愛、経済的状況、ビジネス……。小説の対象とする世界は無限に広い。めのおはやはり現代的なテーマを書きたいです。
小説を書いていて、思うのですが、場所の描写や、歴史的、社会的事件に関係ある記述をちらっとでも書く時は、現実の事実認識と同じ感覚、実証主義に則って書かねばならない。つまり、私たちが日常生活で使っている考えや知識がそのまま適用される。
距離とか物の値段とか、物の位置関係や時間的前後関係を、現実の3次元、時間も入れて4次元の世界の法則を適用しておかしくないように書かねばならない。しかし、現実の4次元の世界の法則に適って書くことにより、小説の世界、フィクションが支えられ、リアリテイーが与えられるわけです。
小説の時代設定を現在から35年前の1977年としたなら、ペットボトルが出てきたらおかしいし、ヴェトナム戦争の「サイゴン陥落」や「毛沢東の死」も物語の時間と整合性を持たせなければならない。
こんどの小説「アンナへの贈物」のメインテーマは「所有」ということですが、核戦争の恐怖に怯えていた思春期の主人公が出会った人々と事件、第二次大戦でナチス・ドイツが占領中のパリで起こった、「ヴェルデイヴ」と呼ばれるユダヤ人狩りと、二人のユダヤ系女性アーチストとアンナの伯父さんの知識人のことを書きました。
ですので「ヴェルデイヴ」が起こった1942年の7月16日。またユダヤ人は胸の左側の見やすい部分に黄色地の「ダヴィデの星」を縫いつけ黒でユダヤ人と書かねばならなかった。その命令が出たのはパリがナチスに占領されてからのことだとか、そういう事件の時代考証も必要でした。
なぜユダヤ人迫害のことを書いたかというと、主人公がパリへ出て最初に見つけた翻訳アルバイトのミニコミ新聞「パリ旬報」の編集長が、ユダヤ人狩りを指示したヴィシー政権の首相の曾孫だったからです。これはめのおの実際の体験に基づいています。
日本人の青年の主人公は思春期に「キューバ危機」などで全面的核戦争が現実に勃発する寸前で危機が回避された身も凍るような恐怖の「暗黒の土曜日」を体験しましたし、水俣病やイタイイタイ病など公害の時代を経験しました。
主人公の啓は思春期にモジリアニを主人公とした映画を観て感動し、モジリアニの絵とユトリロや藤田嗣治のエコールド・パリの絵に憧れてパリへ出てきます。
啓は絵が好きですが一方で核の時代に絵を描くことの意味を問い続けています。パリでアンナと出会い、モジリアニがユダヤ系でアンナもユダヤの血を引いていると知ります。
アンナが助手を務める版画工房の先生のダニエルの勧めで、啓はアンナとランスへ行き、藤田嗣治が晩年死力を尽くして建てた「平和のシャペル」の壁に描いたフレスコ画。それとオーセールのカテドラルのクリプト(地下礼拝堂)のフレスコ画を見て、モジリアニの単純化した顔と身体の描き方に共通性を感じ、数百年先までも(あるいは核戦争で人類が滅びた後も!)残るフレスコ画修復の仕事に携わることになります。クロマニヨン人が描いた洞窟画がドルドーニュに残ってるようにですね。
小説にも書いたのですが、啓は風景画を描いても、自然の不定型な線や形に捉われて抽象化ができない。友達のアンナも具象画ですが、形を単純化して人や馬の形の特徴を捉えより強く表現すると言います。
絵でいえば、写真が普及してから後、西洋では写実主義はハイパー・レアリズム(と一部のプリミテイヴ絵画)を例外として無くなってしまいました。抽象画が主体です。カンデインスキーは絵とは人間の内面、つまり「魂」が感じることを線や点や形や色を使って表現することだと言っています。
抽象と具象については近いうちにまた書きたいと思います。
(つづく)

