マレーネ・デイートリッヒとパトリシア・カアス | 雷神トールのブログ

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パトリシア・カアスという歌手をご存じだろうか?
ドイツに近いロレーヌ地方のモーゼル県でフランス人の父とドイツ人の母の間の7人兄弟の末っ子として1966年に生まれた。 
6歳までドイツ語しか話せなかったという。
1987年のシングル版「マドマゼル・シャント・ル・ブルース」が大ヒット。フランスでプラチナ・レコード、ベルギーとスイスでもプラチナ。カナダではゴールド・レコードとなった。
1990年には16カ月に及ぶワールド・ツアーで12カ国、196会場で歌った。日本では1990年12月にパナソニック・グローブ座で「ヨーロッパのおんなたち」というタイトルで歌った。
めのおが知ったのは、1990年のリサイタルをテレビで見て2時間余に渡り、何千人もの聴衆を相手に独りで歌い続けるカアスをみて凄い歌手が現れたと注目したのが始まり。

彼女の歌から二つ。まずは、「ケネデイー・ローズ」から。J.F.ケネデイーの母、ローズ・ケネデイーに捧げられた歌。



アメリカ合衆国大統領のことをフランス語では「プレジダン・デ・ゼタ・ジュニ」と言う。

つぎは、パトリシアの母の祖国、それも祖国を捨てた女優にして歌手、マレーヌ・デイートリッヒが第二次大戦中ドイツ向け放送で歌った「りりー・マルレーン」への哀悼の歌。



では、マレーネ・デイートリッヒについて少々。
映画「嘆きの天使」とゲリー・クーパーと共演の「モロッコ」で妖艶な姿を見せた。女優で歌手の彼女の人生は波瀾に富んでいる。1992年にパリで亡くなり、マドレーヌ寺院で葬儀が行われた。
生れたのはベルリンで1901年。プロイセンの近衛警察士官の次女として生まれた。幼くして父を亡くした。本名はマリー・マグダレナ・デイートリッヒ。18歳で国立ワイマール音楽大へ入りヴァイオリニストを目指すが、手首を痛め断念。
ドイツに居る間にパラマウント映画に出演。ナチスの台頭を嫌って国外へ出る。ジブラルタルで在英米国大使のジョセフ・ケネデイーと知り合いアメリカに渡る。若き日のJ.F.ケネデイーとも交際があった。
アドルフ・ヒトラーはマレーヌの妖艶な美を愛したようで、ドイツに戻るよう要請したが、ナチス嫌いのマレーヌはそれを断り、1939年にアメリカの市民権を取得した。
カリフォルニアに住んでいた頃フランスの人民戦線派の俳優ジャン・ギャバンがヴィシー政権に睨まれてアメリカに渡った時に自宅に住まわせた。
第二次大戦中は3年間USO(前線兵士慰問機関)としてパットン戦車隊に従い、イタリー、フランスドイツ、チェコ等を回り米軍と英軍の前線兵士に歌を聴かせた。この歌は兵士が口ずさんでいたのを覚え前線で歌ったという↓



戦後、壊滅したベルリンで、奇跡的に母親と再会、その2か月後に、母は急死した。
1950年代にはマッカーシズムのブラックリストに載っていたと言う。
パリのモンテーニュ通り12番地に住み、海外公演でオーケストラボックスに落ち骨折してからは人前に出ることなく1992年に90歳でひっそりと亡くなった。お付きの人の証言では脳溢血で寝たきりとなり安楽死を望み睡眠薬を頼んだという。遺言でドイツの母親の墓の脇に葬られた。

なお「リリー・マルレーン」について補足すると、この歌は歩哨に立っている兵士が恋人を想う詩にノルベルト・シュルツエが曲を付け1939年にララ・アンデルセンが歌って録音したレコードが有名になり、ドイツ軍放送から毎夕流された。戦場のドイツ兵士が耳を傾け故郷を懐かしみ涙を流したが、アンデルセンの愛人がユダヤ人だったことが発覚し、歌は禁止され、宣伝相のゲッペルスは別のヴァージョンを作らせた。アメリカやイギリスの兵士も聴き覚えて唄っていたのをマレーネ・デイートリッヒが歌い逆にドイツ向けに放送で流したという。

また、歌ではなく映画の「リリー・マルレーン」もある。ファウスビンダー監督、ハンナ・シグラ主演1981年作のとてもいい映画です。

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