私小説風エッセイ その① | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

フォードがヒトラーを援助した記事を読んで眼からウロコと感じたのは、何も20世紀の生産方式との関係からではなく、めのおの私生活に絡む事だったからである。少しだけ私小説風に書く。

めのおの父は産業コンサルタントだった。小学校で父親の職業を問われた時に、その頃まだ非常に珍しかった「コンサルタント」という英語の職業名を口にすることに誇りを覚えた。中学までのめのおは父親を尊敬し、大きくなったら父親と同じエンジニアになると信じていた。

しかし、高校に入ってそれが大揺れに揺れた。
日本は戦後すぐに、アメリカのデミング博士が来日し、品質管理を中心にQCサークル運動を展開していた。この運動を皮切りに、
産業コンサルタントは生産現場で高品質、低価格、納期厳守を目指し、日本の製品が世界でトップクラスを占めるよう様々な改善運動を勧めていた。4SとかZDとか改善とかの名前で呼ばれていた。

めのおの父はそのひとつ「ZD( Zero Defect )運動」を展開していた。現場でのミスを減らす全員参加の運動だった。後に自分で協会を作ってTPMというメンテナンスを軸においた生産性活動を行った。

めのおの父親は九州や北海道の工場へ何カ月も出張することはざらで、偶に帰って親子水入らずで
夕食をとる時も、ZDとかメンテナンスという言葉をたびたび口にした。食事時も念頭から離れないくらい力を籠めてやっていたのだろう。

中学までのめのおはそういう父を尊敬し誇りに思っていた。ところが、高校に入ったとたん、めのおが純真素朴に信頼を置いていた父親の職業に異議を唱える人たちが居ると知り、頼っていた柱が揺るぎ、明瞭だった未来が曇り始めた。

終戦直後、天皇が人間宣言をされたことで、三島由紀夫は思春期から寄せていた天皇陛下への崇敬心が裏切られたと感じた。めのおの場合、父親への敬意は三島ほどではないが似たようなものだったろう。ただめのおの場合、父親の方は変わらずめのおの方が絶対的だった信頼を相対化し、父親を批判の眼で見るようになった。

中学までのめのおは先生や親の言う事をいつも素直に聴く純真な子供、いいかえれば記憶さえすれば良い点数が取れ成績順が良くなる勉強を疑いもせずやっていた子供だったので、大人の社会で起こる事柄に関心を向けることも少なく、自分で物事を批判的に考える力などまったくなかった。ただ、考える力がないという自覚だけは薄々持っていた。それに言語能力が劣り、人前で物を言えなくなってしまう病癖があった。

中学で同窓のハリーメイさんは覚えておいでだろうが、生徒委員長に先生の勧めで立候補させられスピーチの壇上に立った時も、名前を名乗っただけで言葉が出て来ず沈黙したままでいた。それでも、成績順が良かったのが人気を呼んだのか選挙で選ばれてしまった。当時の中学校の民主主義教育はそんなものだった。何度か先生を交えた集まりでめのおは民主主義という言葉を覚え、それについて考える機会を与えられたことは幸いだったと思う。

ひとつだけ、確かアジア大会に関連した運動会の開会式に分列行進の先頭に校旗を掲げて歩く役を仰せつかったことがある。黒い制服を着て胸を張り白手袋を穿いた手で
校旗を掲げながら歩調をとって歩く姿を自分でも晴れがましく誇り高く感じた。中学までのめのおは軍隊の規律、命令を忠実に実行する軍人、国家とか社会の為に身を賭して戦うことを尊敬すべきものと信じていた。

そうした単純な使命感に駆られて親と先生の言う事を真に受けて勉強ばかりしていた中学時代のすべてが、後に、反動となって激しい自己嫌悪に陥るのだが……。

さて、めのおが進学した高校は都立の進学校だったので日教組のごりごりの先生も居たし、全学連の反主流派の青年部、民青が生徒会執行部を牛耳っていた。

生徒会執行部に関係している生徒たちには自分で考える能力があるとめのおには感じられた。そこに惹かれて執行部に近づいたのだが、部室に置いてあった新聞を何気なく手にとった時、めのおの心は激しく動揺した。
民青新聞には「ZD運動」は働く者の敵と書いてあった。

青天の霹靂だった。めのおが誇りに感じていた父親の職業に異議を唱える人たちが居る。オヤジがやってることに迷惑を感じる人たちが居る。めのおの父親への無垢な信頼が不安で揺れ始めた。

  (つづく)


ペタしてね