友人が描いた絵 | 雷神トールのブログ

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トリウム発電について考える

祐造とはパリで知り合った。めのおがパリに来たばかりの頃だったから1975年の初夏。今から37年も前のことである。

祐造の奥さんのお兄さんがめのおと祐造を引き合わせてくれた。
ふたりとも滞在費ぎりぎりで暮らしていたので、安い下宿を見つけ、二部屋をシェアして暮らした。地上階で良い部屋があるとスペイン娘に騙され行ってみたら9階のエレベーター無しの屋根裏部屋だった。

そこはギリシャ人の夫妻がパリ生活を始めた想い出の部屋で、湯が出るし、電気ガスも使い放題でタダだった。他にそんな条件の部屋は無いので、一も二も無く決めた。まだ、パリには古き良き時代が残っていたのだ。

祐造は佐伯祐三の話を熱心に語ってくれた。佐伯はいつも友達に「おれは純粋か?」と訊いたという。佐伯は大阪のお寺の息子で、パリへ出てきてすぐ里見勝蔵にブラマンクを紹介され、絵を見せたところ「このアカデミックめ!」と一喝され、悔しくて、それから必死の美の探究が始まった。

一旦日本へ帰ったものの、日本の風景は絵にならぬとまたパリへ戻って来た。奥さんと娘さんと三人暮らしで、パリの街頭に立ち、一日一枚の異常なペースで100号級の大作を次々描いたが、エネルギーを燃焼しきって最後は結核菌が頭に上り、クラマールの森の入り口で首を吊ってるのを発見され一命は取りとめたが、エヴラール精神病院へ入れられ、そこで1928年8月僅か30歳の生涯を閉じた。

佐伯祐三が住んでいた最後の住居兼アトリエを探しに
祐造とクラマールに行った。半世紀近くを経て廃墟になっていたがその家はまだ残っていた。鉄の門の隙間から庭に入り、佐伯が娘に買い与えた人形をモデルに描いたであろう部屋の床いっぱいに散らばったガラス片に秋の陽が煌めくのを見ながら過ぎ去った時間と純粋に燃焼し切った芸術家の短い生涯に想いを馳せた。

佐伯の晩年の絵には禅画を想わせる線と、フランスで第二次大戦後にアメリカの抽象画に対抗して出て来たタッシスム(沁み主義)の傾向を認めることができる。

めのおがこうしてフランスに今も居られるのは祐造のお陰である。祐造のボザールの友達の日本人画家はフランス女性と結婚し、めのおのカミサンと同じ職場だった。祐造と一緒によくその画家夫婦の家へ遊びに行った。

祐造はその年の冬日本へ帰り、めのおはフランスに残った。
それから37年、祐造は北海道の大学で美術学部の責任ある地位に就き、自分の作品の制作が出来ない苦しみと闘いながら北海道で初めての日展入選の学生を多数育てた。

忙しい教職の合間を縫ってやっと仕上げた作品を送ってくれた。昨日小包と一緒に着いた。写真をスキャンしたものを掲載させて頂きます。本人の許可は貰ってあります。

ハイパーレアリスムです。テンペラと油絵の混合技法。板に白亜の下地を塗って描いてあります↓

フランスの田舎暮らし-春光


次から、彼の教え子の作品を掲載したいと思います。

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