老人の懐古趣味と片づけられても仕方ありません。ただ私なりに過去を振り返って、
思想と言うほど整ってはいませんが、考えたことを残しておきたい。何故あのようにこの場所へ行って身を置くことを希求したのか? 何か意味を掴もう、確認しておこうと思いこんでいたに違いありません。
前にも書きましたように私の思春期から青年期にかけて世界は二極体制にありました。それは永久に続くだろうと思われていた。まさかソ連が崩壊するなど夢にも思いませんでした。思春期の少年にとって、どちらが真理を体現しているか? 真理の方へ着こうと単純に考えたとしても責められるべきと思いません。
哲学的に言うところの唯物論、弁証法的唯物論などど呼んでいましたが、それに対立するように西洋の自由陣営のイデオロギーであるプラグマチズムやケインズの経済学など。単純化すると唯物論と唯心論の対立となりますね。どちらが真実か見極めがつくまで生きてやろう。中学の同級生で「不純異性交遊」など週刊誌に書きたてられた心の明るく優しい友人が自殺したり、高校の同学年で既に娼婦的な艶めかしさを発揮していた女生徒が、これまた同級生の早熟な男生徒との関係のもつれから自殺したり、私も時に心が塞がり弱くなって死を考え、なんのために生きるの? と自問したうえで、「認識論」に結論を見るまで生き続けようなどと私なりの答えを出したものでした。六十の半ばを過ぎる今となって、ちょっとだけ前進はしましたが、結論はまだ出ていません。「認識」できるまで、と目標を置いた、お陰さまでこうしていまだに命を永らえています。
私は最初のヨーロッパに旅の間にどうしても見ておきたい場所がもうひとつありました。それは地中海でした。デモクリトスの原子論。プラトンの洞窟の影のイデアの世界論が生まれた世界をこの眼で見ておきたい。
青い深い紺青の海の色。臙脂の岩肌の切り立った崖。抜ける様に青い空。耳が痛くなるほどの静寂。私は、その光景を、思想全集の中のドイツのある哲学者の巻の最初のページにあった写真で見ていました。
その写真の光景と同じ場所へ行って実際に身を置いてみたい。それは、ネヴァ川に映るロシア教会の塔と同じくらい強烈に私が持っていた欲望でした。
私がその夢を実現できたのはパリに落ち付いた最初の夏の終わりでした。パリからアテネまで汽車で行きました。3日2晩掛かりました。列車には空席はなく連結器の真上のデッキに3日座り続けました。私は金が無かったので、そのような苦痛を代償に払わねばなりませんでした。そんな苦業のような旅をしてでも、どうしてもその光景を見たかったのです。
ヴェニスで大量のトルコ人が乗りこんできた。ちょうどキプロスでギリシャとトルコが
戦火を交えていた時期だった。私の隣に居た金髪のギリシャ青年は、ドアの取っ手を押さえてトルコ人が乗りこんでくるのを防ぎましたが、世にあるトルコ人ほど強い者はいないという言葉通り、簡単にドアを開けて乗りこんできました。
二人のギリシャ青年は「こいつらは人間じゃないから……」というと他の車両へ移ってしまいました。私はトルコ人に囲まれてユーゴスラヴィアのひまわり畑の中とか、広いだけで何もない野を地べたに座る腰の痛さをこらえながら揺られてゆきました。トルコ人たちは私が日本人と知るとバナナや林檎や食べ物を食えと言ってくれました。他にダニまでもくれて食われた後が一週間ほど消えなかったですがね。
アテネに着いた時はさすがにぐったり疲れ果て一日ユースのテラスで車の騒音に悩まされながら寝ておりました。
さて元気を取り戻して出かけたのが海でした。
私が独り教条的なイデオロギーの追求から逃れるために当時すがるように読んだドイツの哲学者。彼の超人思想にすがったのです。しかし私は孤独でした。友達とも接触を避け、ひとり自分の部屋で椅子に座ったまま孤独に耐えねばならない寂しさに溜息をついていました。
ヨーロッパへ行き地中海が見たい。その人が岬から地中海を見ながら「永劫回帰」の想念を得た、その地中海の青く澄み切った平らな沈黙の世界に身を置いてみたい。
私のその願いは叶えられました。ナフリオンというアテネから南へ数十キロ下がった位置にあります。
永遠に続くかと思われる静寂。物音ひとつせず、青い水と臙脂の岩肌に視線は吸い込まれる。水と岩と空。三元素だけからなる極めて単純な世界がそこに在りました。
人間の姿は一つも見えない。永遠を感じました。じっと、その海と岩山と空だけを眺めながら三時間ほど私はその光景を眺めていました。海は静謐そのもので大気には光が溢れていました。私は地中海的明証というものがどんなものであるかを僅かながら体感できたように思いました。
ギリシャ語で『認識すること』を 『 ΓΝΟΣΙΣ=グノーシス 』 と呼びます。
キリスト教の異端と見做されているグノーシス派はイエス・キリストが宣教した「至高なる神」と旧約聖書(ユダヤ教)の天地創造の神、「創造神」は違うと唱えました。人間は創造神の所産、つまり唾棄すべき低質のものをたくさん持った被造物ですが、人間の中のごく一部に、わずかに至高神に由来する「本来的自己」が含まれている。これを見出し解き放つことがすなわち救済だと……。
ここには「ツアラストラはかく語りき」のゾロアスター教の二元論、世界は善と悪のふたつの相反する根源から成っているとする考え、また「太極別れて陰陽あり」の道教とか日本の禅と通じるものがあります。つまり東洋と西洋を総合する思想といえるように思うのです。
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