別の説によれば、パリ北の郊外のサン・ドニまで歩き、そこに大聖堂が建てられフランス歴代の王の墓所となったという。
サン・ドニの門は昔のパリの外壁の門のひとつでパリの住民はここから出入りした。この門からレ・アールを結ぶサン・ドニ通りは長い間、街娼が立ち並ぶので有名だったが、エイズの流行で命と引き換えに快楽を購う人口が減り今はひっそりとしている。
モンマルトルの丘の中腹にあった聖堂で、イグナチウス・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルなど日本とも馴染みの深い聖職者が誓いを立て、イエズス会創設の基礎となったという。
いずれにしても、モンマルトルは殉教の地。パリのシンボルのひとつ、デコレーション・ケーキみたいなサクレ・クール寺院は1871年の普仏戦争で敗れた償いに1876年から1912年にかけて市民の寄付で建てられた、比較的新しい教会。
渉はこの丘の上のテルトル広場が芸術家の溜まりになっていると思春期に聞いて以来、パリに憧れ、どうしてもこの丘に来てみたかった。ユトリロの見る者の心に沁みる風景画の色に魅せられたためだった↓
高校の同級生には共産党の下部組織の民主青年同盟のメンバーがいて、パリ・コミューンの話をしてくれた。プロシア軍とチエール率いるフランス共和国臨時政府軍はベルサイユから、敗戦を不服として蜂起したパリを包囲し、孤立し飢えに苦しんだ市民は風船を飛ばし救援を求めたという。
日本は明治維新で、幕府再興を夢み、軍資金提供を約束したロッシェ大使の言葉を信じてパリに来た小栗上野介の使者はフランスが負け、ナポレオン3世が捕虜となってしまい、空しく帰らねばならなかった。
1870年7月19日にプロシアと開戦したが、9月2日にセダンの戦いで敗れ、将兵10万人とともに降伏した皇帝ナポレオン3世は自らも捕虜となり第二帝政は終焉した。第三共和制に移行するまでフランスはチエールの臨時政府が支配した。プロイセンのヴィルヘルム1世はヴェルサイユ宮殿で戴冠式を挙げ、ドイツ統一が実現した。71年1月28日にパリは包囲された。
プロイセン軍の包囲下でパリの住民が組織した抗戦団体がパリコミューンと呼ばれる。1871年3月28日パリ市庁舎で設立宣言がなされ、わずか72日後、5月28日に、プロイセンの支持を得たチエールの仏臨時政府軍により鎮圧され三万人に上るコミューン兵士が銃殺された。モンマルトルの丘の西側にあるペールラシェーズの墓地は最後の抗戦の場と銃殺の刑場と化した。ゴヤの有名な絵がある↓
たった72日間でうたかたの露と消えたコミューンは、しかしながら現代社会に重大な遺産を残した。女性参政権、政教分離、無償の義務教育……など。カール・マルクスは「フランスの内乱」を著しプロレタリア独裁の必要性を説く革命理論を提起した。
むろん、その後の世界史は、知る通り、スターリン独裁と毛沢東の大躍進の失敗を隠すための文化大革命により数千万単位の人民の犠牲者を出したのであり、独裁者が別の独裁者にとって代わったことに加え労働者の独裁という観念が専制政治より更に過酷な抑圧を生んだ。ジョージ・オウエルの「動物農場」はこの不幸を見事に予見した。
ともあれ、パリコミューヌは「人類史上初めての労働者階級の自治による民主国家の誕生」であった。コミューヌはフランスでは今でもどこでも使われる言葉で、地方自治体の最小単位がコミューヌ。村や町の行政範囲を指している。コミュニスムが「共産主義」といつだれが訳したのか定かでないが、元の意味は、同じ地域に生活する住人の自然な共同体意識といったようなものだと思う。その意味では、ナショナリズムとも根が同じで右翼にもなりうる感情を基礎にしている。
プロイセンの捕虜となったナポレオン3世は釈放後ロンドンに亡命してそこで没するのだが、皇帝として在位中、パリの大改造をオスマン男爵に命じ、パリの古い民家を取り壊し、入り組んだ路地を整理して直線の大通りを貫く都市計画を推進した。それまで度重なるパリ人民蜂起を弾圧しやすくしようとの意図が含まれていた。
モンマルトルはパリに残る唯一の農村で、ピサロやヨンキントなどが農村風景を求めて移り住みアトリエを構えてから、芸術家が集まる様になった。洗濯舟( Le Bateau-Lavoir )にはピカソ、モジリアニなどが20世紀初めに共同生活を営んだ。現在もパリで唯一のブドウ畑があり、毎年秋になると収穫祭が行われる。その近くには、ロートレックなど絵描きがたむろした居酒屋「ラパン・アジル」が今も開業していて、懐かしいシャンソンを聴かせてくれる↓
街頭絵描きが集まるテルトル広場の周辺は、いまでも田舎の面影を湛え親和力のある美しい風景を温存している。ユトリロが好きでこの広場に来た渉は広場の絵描きが、その場の風景とは無縁の土産物の絵ばかりを量産しているのに失望したが、裏道に「ユトリロ美術館」を発見し、この情感に満ちた風景画を描いた絵描きへの思い入れが満たされた。
渉は高校一年生の頃からフランスへ来て街頭絵描きをしながらのバガボン生活を夢見たのだったが、ほぼ同じ年齢で、遙かに強烈な天才詩人が、パリコミューンの最中に田舎から出て来ている。アルチュール・ランボーは当時17歳の少年だった。
その前年1870年にランボー少年はアルデンヌのシャルルヴィルからパリへ来たが、無賃乗車でつかまって家に送り返された。性懲りもなく翌年またパリに出て来た時はコミューンで荒れ果てた中をさ迷い歩いた。そこで詩人のヴェルレーヌと出会い、ベルギー、ロンドンと二人で放浪生活をする。同性愛のもつれでヴェルレーヌが拳銃で発砲しランンボーは片手を負傷、ヴェルレーヌは投獄される。
1871年ランボーか書いた長詩「酔いどれ船」にはパリ・コミューンの光景がイメージに織り込まれているという。言葉の音楽性、イメージと色彩の力強さ。とても17歳の少年の作とは思えない。非凡な天才だけが書き得る傑作を残した後、73年に書いた「地獄の季節」74年の「イリュミナシオン」を最後に文学と決別し、アビシニアへ渡り商人になり、1891年マルセイユへ帰り、右足を切断するも癌は全身に移転し、妹に診取られながら37歳の生涯を終えた。ダダイスト、シュールレアリストと20世紀の詩人に多大な影響を与えた。ルイ・アラゴンも影響を受けたひとり。
ランボーの現代性は1871年の「見者の手紙」に「私は他者である」とあるように、デカルト以来のエゴ(コギト)の中に社会意識(他者の意識)を指摘したこと。「詩人は長期間の、破壊的で、計算された錯乱によってヴォワイヤン(voyant=見者)になる」と宣言して近代的自我を乗り越えたところにある。
せっかくなので、ジェラール・フィリップによる「酔いどれ船」の朗読のリンクを貼り付けます。イメージは動かず、詩の言葉が表示されます↓
http://youtu.be/mPwUUy6pfh4
(つづく)
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