た。この時期の賢二はもっとも唯物論に近づき、生徒会の執行委員長を務める同級生の丹羽から大脳生理学の手ほどきなどを受けた形跡がある。
アメリカの経営工学を日本の企業に輸入している親父の仕事はこんな活動家から見ればきっぱりと縁を切らなければならない性質のものだった。弟には生徒会の執行委員長をしている丹羽が来て、君は親との縁を切って、生活を自分で立ててゆく道を探すべきだときついことを言った。特にアメリカの生産方式(フォード、テーラーシステム)の使者のような仕事をしている賢二の父親には、自分から庇護を断ち切るべきだ。丹羽自信は、しっかり親の援助を続けて受け国立大学へゆき大脳生理学をやるんだと、その道には疑問を差し挟む余地はないといった自信をもってそういうのだった。
賢二の日記から
一九六一年九月X日
昨日、丹羽が僕の家まで来た。「話したいことがある」というので、僕は家へは上がってもらわず、裏の公園へ行こうと誘い、砂場の横のベンチに腰掛けて話をした。丹羽は「きみのオヤジさんは、アメリカの経営管理の手法を日本に取り入れて、企業に指導している経営コンサルタントだろう。きみは、そんなオヤジさんに反抗して勉強を怠けてるらしい。オヤジさんの仕事ははっきりいって人民のためにならない。資本家に奉仕するだけだよ。そんなオヤジさんのスネをかじってるよか、思い切って家を出て、自分で生活する道をさぐったらどうなのか?」と言った。
僕には、それはキツイ要求だった。アルバイトくらいならできるけど、家を出て、親の保護を断ち切って、自分ひとりの手で生活費を稼ぎ暮らしてゆく、などということを今まで考えたこともなかった。丹羽は僕のその甘えを突いてきたのだ。
僕は何をやるという将来の方向も決められず、勉強は怠けてウジウジと落第生でいることに甘んじている。世の中には勉強したくても経済的事情が許さずに働いている青年たちが沢山いる。尊敬できない親のスネをいつまでも齧っていないで、いっそうのこと家を出て工場か店で働いたらどうなのか。つまり、シロクロをはっきりさせ、悪である親と縁を切れということなのだ。
丹羽の言葉には一理あると僕は認めた。だが、それを、すぐ実行に移すことなど出来そうになかった。親父は嫌でも、そんなオヤジだったら一層の事、いつまでもスネを齧り続けてやれというヒネクレた考えが心の隅に沸いた。
「そういう、キミはどうなんだい?」と丹羽に対する言葉がでかかったが黙ったままでいた。頭のいい彼のことだから、その問いに対する答えはちゃんと準備してあるに決まっている。
「僕は東大の医学部へ行き大脳生理学をやる。認識論を一歩前進させることは人民の利益に貢献するからね」とかなんとか、自分は頭もいいし、勉強もしっかりやってるし、生活の援助を親から受けて勉学を続けるだけの資格がある。だが、キミは現状にイヤイヤをしてるだけで、すこしも打開しようとしていない。それにたいする忠告なのだよこれは。
はっきりした態度を示せずに、僕は砂場から溢れた砂を足で掻き寄せたり慣らしたりしていた。丹羽は話しておくべきことは話したと感じたのか、それ以上、僕を問い詰めることはせずに帰っていった。
僕はもっと、何のために学問をするのか、学問とはなんなのか、なんのために学校へ行くのか?を真剣に考えてみなければと思った。
(つづく)
ポチッと応援ありがとうございます↓
連載の励みになります。