失われた時 - その6 江戸のなごり | 雷神トールのブログ

雷神トールのブログ

トリウム発電について考える

 井戸のある南側は、公園への細い通路を挟んで、秋摩さんの庭の鬱蒼とした常緑樹の繁みがあった。秋摩さんは古くからこの土地に住みついた植木屋で、お爺さんは明治、いやひょっとすると江戸時代からの鳶(トビ)の組長くらいの偉い人らしかった。

 というのも、秋摩の子供のひとりの「清(せい)ちゃん」がべらんめえで「秋摩せ~ざ~もんを知らねエ~か」と啖呵を切ったからである。

 秋摩さんも兄弟と年寄りとが同じ敷地内に住んでいて、源ちゃん、清ちゃんの同い年の従兄同士と「清江ちゃん」という源ちゃんの姉さんがいた。男の子ふたりは丸刈りで、めのおも小学3年までは坊主頭だったから珍しくないのだが、イメージに残る源ちゃんは黒か紺が主体、清ちゃんは青みがかったグレーで、普段ふたりが身につけている半ズボンの色から来るようだった。清ちゃんはいつも霜降りの明るい色のズボンを穿いていた。

 この庭の公園側の入り口の脇には材木置場があり、長く真っ直ぐな杉の丸太が数十本立て掛けてあった。建築現場の足場を組むのに使うらしかった。表の路地に面した門のある入り口は、松などの下に柘植や椿が植わり、冬も黒々と翳を作って、奥に続く平たい跳び石はいつも水を打たれ濡れて光っていた。

 秋摩さんの東側は大きな旅館で、和風の建物に隣接して洋風のホテルが、路地から引っ込んで建ち、ちょうど公園の出入口に向かい合う位置に広い駐車場があった。

 夏祭りには、はっぴに鉢巻きの若い衆がお神輿を担いでこの広場を練って回り、秋摩さんの門から入って行ったし、正月には、「出初め式」に、火消しの装束を着た鳶の職人が、長い青竹のハシゴをカギの付いた棒で四方から支え、藍染に赤い文字を染め抜いた半纏の男がするすると梯子を登り、てっぺんで曲芸をするのだった。

フランスの田舎暮らし-はしご


 公園の入り口には太い角材を組み合わせた車止めが立っていて、それにも子供たちは攀じ登って遊んだ。

 秋になると、この車止めと秋摩さんの植木の角に「石焼き芋」屋が、リヤカーを停め、薪を焚く釜で熱せられた豆粒ほどの小砂利に、薩摩芋が埋まり、甘く香ばしい匂いを漂わせるのだった。

 「石焼き芋」は比較的後になって現れた商売で、めのおが幼児の頃は、江戸の名残と思われる行商人が、この山の手の一角にもたくさん来た。

 「きんぎょ~お、金魚~」と唄うような呼び声で天秤棒の両端に盥を提げて金魚を売り歩く金魚屋は夏の風物詩としてとても情緒がある。

 声を挙げる行商は他にも

 「竹やあ~、さおだけ~イ」の物干し竿屋。

 「あっさり~、しんじめ~」の蜆売り。

 「ナットなっと~ナット~うい」の納豆屋さん。

 呼び声は立てず、静かに路傍に道具箱を置いて鍋釜を並べ、穴を修理する「鋳かけ屋」さん。

 特異なのは蒸気で笛を「ぴ~」と鳴らしながら通る「羅宇(ラオ)屋」だろう。
煙管(キフランスの田舎暮らし-lao3 セル)の雁首と吸い口を繋ぐ竹の管をラオと呼び、この中に溜まった煙草のヤニを蒸気で取り除き綺麗にする商売である。

 
フランスの田舎暮らし-kiseru

なぜ
「羅宇(ラオ)」と呼ぶのか?いままで知らず、辞書を調べてみた。

なんとフランスの田舎暮らし-rao1 LAOS( ラオス)、東南アジアの国の名から来ている。
ラオスで採れる竹は節と節の間が長く、煙管に良いので珍重されたそうである。


 お玉婆さんもラオ屋さんの汽笛が聞こえると煙管を二三本めのおに渡して掃除を頼んだ。



 行商でもっとも世話になったのは野菜の担ぎ屋のおばさんと富山の薬売りだった。
野菜の行商は、房総の農家の女性が30~40キロもある野菜の詰まった籠を背負って朝早く電車に乗り都心に売りに来る。

 各家庭の台所へ産地直売の新鮮な野菜を直接届けてくれる、サービスに徹した商いだった。お袋は、おばさんがどっしりと板の間に降ろした籠から、トマトやなす、胡瓜、ピーマンなどを買った。

 富山の薬売りは、家庭の常備薬として箱ごと無料で置いてゆき、翌年、使った薬の代金だけを受け取るシステムで、良心的商法の見本みたいだった。征露丸とか、赤い小粒の丸薬「とんぷく」は良く効いた。

 しかし、こうした行商の人たちの姿も、細い路地にまで自動車が入ってきて、向いのホテルの駐車場にキャデラックなど外車が停まるようになると次第に姿を消した。

 洋風のホテルが建つ前は、長い間空き地で、めのおが幼い頃は、奥の「吉屋」さんの家へ「貰い湯」、お風呂を使わせて貰いに行った。その後、職安通りに近い路地の外れに銭湯が出来たので、そこへ通うようになった。めのおが小学校へ上がったばかりの頃に、洋風ホテルが出来、朝鮮戦争の関係か、アメリカ兵がホテルのバルコニーに姿を見せるようになった。
 
 いまもはっきりと記憶に残っているが、バルコニーの椅子に上半身裸に近い恰好の米兵が白い肌に金色の毛とピンクの血の色を透かせた腕を、膝の上に乗せた日本女性の「パンパン」の背にかけ抱いていた。

 下の広場に子供がいるのを見ると、米兵は「カモン、へい、カモン」と言いながらチューイングガムを撒いた。めのおは怖いので、仲間が拾うのを電柱の陰から盗み見た。「シロ豚」みたいな白人に侮蔑と畏怖を抱いたのだった。

 その白人が中心のアメリカという国が日本を戦争で負かして占領したということは5・6歳の子供にも分かっていた。幼稚園の前の明治通りを米軍の戦車が轟々と地響きを立て走ってゆくのを見たのもこの頃のことだった。


 (つづく)

ポチッと応援ありがとうございます↓


にほんブログ村 小説ブログ 長編小説へ
にほんブログ村