SNSの繁栄で、誰しもが自分の意見を世界中に発信できる昨今。
「自分の意見が絶対的真実である」
という思想のもとに発信をする人が多すぎると思う。
「自分の意見を発信して理解してもらいたい」ことは悪いことじゃない。
ただ、「自分の意見を発信して従わせたい」になってしまうと話は別だ。
世の中のすべての事象に正解はなく、いろんな捉え方があるはずなのだ。
たとえば、俺にはパクチーの美味しさが理解できない。
でも世の中には「パクチーサラダ」という、俺からしたら地獄の盛り合わせと言えるべき料理があるのだ。
これを真っ向から否定して世の中に発信することが、どれだけ危険なことか。
もちろん「パクチーサラダ地獄論」くらいではおおごとにはならない。
しかも俺の存在しているコミュニティの中では尚更、おおごとにはならないと踏んでいる。
だから俺は「パクチーサラダは地獄の番犬の臭飯」だと発信することもある。
でもそれは「パクチー」好きな人に対して「パクチーなんてまずいもん喰って頭おかしいんじゃないの?」と、自分の主張を上に立てて従わせたいわけではない。
どちらかと言うと「パクチーが好きなんてバグってるだろ!」といじっている感覚だ。
そこの塩梅は非常の難しい。
しかし、この塩梅を理解っている、理解っていないでだいぶ違うのではないか。
もちろん発信側も、受け取り側も、お互いがちゃんと理解して成り立つ。
だからこんな偉そうに論じているが、中には不快に感じる人もいるかもしれない。
でも俺はそのことを(多分)理解して発信しているだけ、リスクは高くない。
(リスクという表現が正しいかは疑問だけど)
その辺りをちゃんとわかった上で発信できるからこそ、「発言の自由」が機能するわけで、身勝手に「自分が正しいに決まっている」と思って発信する人が多すぎるからこそ、今こんな混沌とした世の中になっているのではないか。
なんだか長々と「自分勝手」ともなりかねない意見を書いてしまったが、何が言いたいかと言うと、
「パクチーを美味いと言っているヤツは完全に頭がおかしい、あれは犬も喰わない雑草だ」
ということである。