もう二ヶ月前のことですが、
大阪の国立国際美術館で開催されていた
『抽象世界 Abstraction:Aspects of Contemporary Art』(5/25~8/4開催)
に足を運んでみました。
1980年からのヨーロッパ、アメリカの抽象絵画が集められ
現在も活躍する作家達も多く出品していました。
立派な美術館で広々とした会場。作品への解説の言葉も少なく、ただそれぞれが淡々と存在しているように贅沢に展示されていました。
3mを超える大きな作品も、数十cmの小さな作品も、
そのサイズに関係なく一点一点丁寧に空間を与えてありました。
『抽象世界』であります。
もちろん意味や内容はわからないものの、そこを深く追求することはなく自分のペースで表現にじっくりと対面してきました。
率直に〝面白い!〟〝いい絵を観た!〟などの感想ではない…。過剰な演出で場を盛り上げた昨今の展覧会と比べると地味にまで感じる雰囲気ではありました。
しかし充実感に満たされ、開放的な感覚を得られた時間を久しぶりに美術館で過ごせました。
作品に込めた独自の思考を絵にした抽象画。そこには技術や美術、極端に云えば意味などを必要としない力強さ、ひとりの人間が出し切った表現に、周りの人々が関わってなし得る、現代がたどり着いた豊かな社会・文化があると思っております。
なのでこの展覧会は現在の日本で絵を描いている者には、とてつもなく羨ましく感じるであろう内容であったのではないでしょうか。
なんだろうか…、知識や表現力や絵を描く行為などの上達や意味を求める学問以前に、もっと身近にある好奇心なのか、能動性か受動性なのかわからないが、本来無意識に発動すべきところに根本的な感覚(センサー)のようなものがあって、そこに自由に行き来できない壁があっては、とても他人と云うひとりの人間が描いた抽象画に共感し、それを扱おうという気にはならないだろう。もしかしたら壁の向こうのその身近な感覚には、人類にとってさまざまな暗示が含まれているのかもしれません。
自分が建てた多くの壁を少しでも取り外し、ものすごく身近にあるであろう原始的な感覚へ自由に行き来しながら、この科学が猛烈に進んでいく現代を悠々と生きられれば…と、勝手な妄想も膨らまして、いろいろと考えさせられた展覧会でありました。
しかしながら人々の興味のバランスが意味や成果に傾きすぎている現在に、これだけの展覧会を企画した国立国際美術館の姿勢を感じました。東京ではとても難しいかもしれません。また、大阪のギャラリー巡りもほんの少しだけしましたが、とても表現に真摯に向き合っているようにも感じました。
それと食べ物がやっぱり美味しかったです。