今週の九条の大罪/第105審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第105審/生命の値段⑭

 

 

 

 

壬生と宇治、それに彼らが心酔する白洲次郎みたいな男の3人がお寺にきている。寺なんだな。神社にいきそうだけど。

 

白洲次郎っぽい男と壬生は、「明治以前の教えを説く塾」で知り合った。壬生と宇治は中学からの知り合いなので、塾に行っていたタイミングしだいで宇治がどうかかわっていたのかはちがってくる。壬生は中学の時点ですでに「壬生」として完成していたので、この「塾」というのはずいぶん小さいころのはなしで、宇治は通っていないのかもしれないし、あるいは大人になってから思想涵養のために通い出したのかもしれない。どちらにもみえる。

 

寺には鹿がいて、修学旅行生なのか、中学生か高校生の男子がいじめている。壬生が声をかけ、宇治が威容で学生を追い払う。宇治は鹿をかわいいというが、ふたりはぽろぽろこぼれるうんこを踏んでしまう。ほのぼのうんこエピソードだ。

うんこ踏んだ靴のまま三人は歩く。壬生と宇治が大男なので、別に小さいということもないであろう白洲次郎がなにか特殊魔法をつかってくるラスボスみたいにみえる。宇治と壬生が阿吽の金剛力士みたいだ。ちなみに、今回のはなしを通して白洲次郎の顔はまだ描かれていない。帽子でずっと隠れている。いい雰囲気だ。以前(第103審)壬生が現場に「いない」ことについて、偶像崇拝を禁じた一神教的なものを感じたが、ここからもおなじものが感じ取れる。いつか詰めないといけないな・・・。

 

白洲次郎が道徳心理学における道徳レベルについて語る。第一段階は罰を避けるためのふるまい、第二段階は法律やルールにしたがうふるまい、だがひとがほんとうに目指すべきは第三段階、内的な両親に基づく自制したふるまいだと彼はいう。第一段階と第二段階はともに「法」が存在するのだが、それに向ける態度が異なっている。罰を受けるから自制するのか、ルールだから自制するのかというちがいだ。だが、法があるなしにかかわらず、最終的にひとは両親によってその自制を達成しなければならないのだと。

だが、ルールにしたがっていれば報われる現実なんてこの世にはない。なぜならルールは作った側が優位に立てるよう設計されているから。これからさらに厳しい世の中になって、気力や希望を失いそうになったら、そのことを思い出せと彼はいう。心の中の自由は誰にも奪えない。自分軸で判断できなければ一廉のものにはなれないと。

その彼がいま興味があるのが九条である。会わせてくれと。法の非対称性を論じたあとに弁護士のはなしをするのは興味深い。法を、ただ守るべき者として受け取っていない特殊な弁護士として、壬生のはなしを通じて、彼は九条を認識しているのだろう。

 

その九条のところには釈放された射場がきている。うかない表情なのは有馬からへんな脅迫メールっぽいものが届くからだ。

 

まだ交流されている池尾のところには相楽がきている。九条が訪れることが気持ちがかわり、白栖の身代わりになって罪を引き受けるという役割を拒否したところだ。弁護士も九条に変えた。相楽はじしんのプライドをかけて、次の手に出ているところだ。

相楽のできることといえば、九条への池尾の信頼を壊すこと以外にない。九条は反社の弁護ばかりやっている悪徳弁護士である、かかわっていいのかと、まずはふつうのアプローチだ。しかし池尾は相楽のほうが信用できないという。だが信用とはなにか?と相楽は問う。「一億だ」として、手にもって見せるスマホのタイマーが16分40秒を示している。1000秒だ。これから1秒で10万ずつ額を減らしていくと。相楽は池尾が手にする利益をよく見えるかたあちで示すことで説得力を得ようとしているのだ。株式投資や不動産投資もしているじぶんにも目減りする苦痛はよくわかると。早めに決断するよう、相楽はせかすのだった。

 

 

 

つづく

 

 

 

別料金を要求していたので、探偵など雇って具体的な九条の不祥事など探すのかとおもったが、そういうことではなかったみたい。それとも、やったけど出てこなかったのかな。

池尾が白栖や相楽への屈服を避け、九条に傾いたのは量的な「パワー」に屈する以外の選択肢を初めて知ったからだ。金で折れるなら九条には傾かない。なので、ただお金を積むだけでこれを挽回することは相楽にはできなかった。そこで段階を踏む。まず、九条は信用できない。いまは信用できるとおもっているかもしれない。だが、そうさせている感性はどこに由来するものか? それは、前回のやりとりでは、「ものの道理」を九条が説明したことによっているものとおもわれる。組織を保護するためには尻尾切りをしていてもしかたない。むしろ弱いものであるところの池尾は守られるべきであり、白栖の責任をしっかり追及すべきだと。おもってもやらないことを真顔でやるのが九条だ。この理路整然とした、そしてじしんを守るものとしての説得が、信用を生んだ。それなら、それに匹敵する説得力を相楽は生み出さなければならない。それが、いまこうして相楽や白栖から離れている期間そのものが「損」であるとする理法だった。勾留されることで奪われるのは自由だけではない。人生の「時間」も奪われている。このタイミングの池尾に「時は金なり」はかなり重く響くものかもしれない。迷い、九条に傾いたことじたいが誤りであり、誤りであるからこそ、いまこうして彼は自由と時間を奪われている。その、奪われている「時間」を数字にして目の前に指し示したのが、今回の相楽の戦略ということになる。たった20日のカンモクパイのきつさを見越してのこともあるかもしれない。罪を認めたらもっと長い期間つかまることになるだろうが、そのときに奪われる「時間」には値札がついているわけである。そのちがいを、げんにいま自由と時間を奪われる体験をしている池尾に伝えたわけである。

 

 

白洲次郎の思想はどのようなものだろうか。

壬生は9条破棄を唱えるものだが、その手の攻撃的な言説については、彼は「物騒だ」としていた。彼を思想的支柱として壬生らがそのような考えに到達した可能性はあるが、今回をみても、白洲次郎みたいな男はフランス革命のルソーというか、マルクス主義のマルクスというか、直接関係はしていないがそれなしではありえなかったようなもののようにみえる。

 

道徳心理学のくだりの3段階は、段階を踏んで形成されていく良心というはなしなので、第3段階の良心にいたるまでに実は法を経由している。くわしいはなしではないので、作中発言のみに限ってのはなしになるが、だからこれは、「ほんとうの人間とは」というはなしではない。白洲次郎っぽいひともそういっている。彼は法やルールが無効だといっているのではないのである。まず罰、そして法があって、そののちに、それらを内面化した良心をもった人間があらわれる。ひとが目指すのはほんらいここで、法律に従う第2段階で足踏みしている場合ではないのだと。こう考えれば、法律をただの法典、文章のかたまりとしてはとらえない九条のありようは興味深くみえるにちがいない。それが「良心」なのかどうかはひとまずおいて、少なくとも、第2段階にとどまることをよしとはしない人間なのだ。しかも、こういう理屈ではなしを運ぶと、アウトローを肯定する文脈になりがちなところ、九条は弁護士なのだ。だからあんなにおもしろい人格になるのである。

良心にしたがう人間にとって、法令遵守は自明のことなのだ。はなしのとおりなら、まず罰を通じてやっていいこととわるいことがあることをひとは学び、続いてその内実が記された文章の存在を知る、という流れになる。ついでに社会のしくみ、どうやって治安は保たれているのかということも知るだろう。これがじぶんのなかに、自発的なものとして構成されたとき、良心が出現する。フロイトの良心も、打ち勝つことのできない存在としての「父」を内面化することで生まれた内なる父としての「超自我」によって成立するものだが、ほぼ同じ理屈であるとみられる。この「父」が「法律」なのである。

だが、白洲次郎っぽいひとの読みかたはかなり独特におもえる。明文化された「法」の支配する世界では報われない。内なる自分、自分のなかにある「法」を行使する術を学ばなければならないと、こういうはなしなのだが、その内なる「法」とは、報われない法秩序世界を内面化したものなのである。だから、彼のいっていることは、法典そのもの、法律に書かれた文章そのものの内面化が第3段階ではないということになる(じっさいの道徳心理学でもそうなのかもしれない、調べていません)。そこで行われる内面化はインストールのようなものではない。その内容は問わず、秩序を守るためにルールしたがうという手順そのものなのだ。そのルールの内容じたいは、心の中の自由があるから、どうなってもいい。ただしそのルールにだけはしたがわなくてはならない。それが良心であるのである。

これは、以前回想シーンで登場したときにいっていた「信念」とほぼ同じ意味かもしれない。敗戦で失ったのは武力や金ではなく、信念だと。それ以外はすべてその結果でしかないのだろう。書いてあるルールをただ守っていればいいのかというと、それはちがうということは、ふつうに生きていてもわかることだ。だが、「それはちがう」と口に出していうのは勇気がいる。書いてないからだ。書いてないことを口に出せないのは、それがかたい信念として形成されていないからだ。彼の理論はおおむねこんなところになりそうである。

 

弁護士は、その「書いてあること」の専門家だ。しかし九条は、そこに書かれていないものを読み取ることでいまのようになった。兄の蔵人には見えないものを読み取ることをよしとすることで、いまのスタイルになったのである。そこには信念がある。だからあの男も興味をもつのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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