今週の九条の大罪/第33審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第33審/消費の産物⑥

 

 

 

 

笠置雫(作中の表記は「しずく」なので、これからはフルネーム以外これに従うことにする)のAV撮影がついにはじまった。現場にはテレビも置かれていて、いま撮影されているものがうつっている。こんな、撮影中リアルタイムで目に入る感じなの?! やりにくくないのかな・・・。

しずくはうまくやったようである。現場のスタッフも好感触だ。粟生がちからを入れているのもほんとうのようだ。

 

しずくはお風呂で膣洗浄。このあとフェラとパッケージの撮影があるという。ぜんぶ終わってからシャワーではないのだな。なるべくはやく洗浄したほうがいいとかそういうことかな。退勤1時間前に30分休憩が入るみたいな感じでモチベーションを削ぎそうだが、しずくはご機嫌である。撮影が楽しかったのだ。パッケージ撮影でも、カメラマンの煽りが気持ちよさそう。生まれて初めて存在をまるごと肯定されているのである。

 

修斗の店に粟生が来ており、しずくについて話している。とにかくAV女優として素晴らしいということだ。修斗は、「純粋だからいい」と語る。「不幸な生い立ちで居場所も将来の目標もないのが素晴らしい」とも。完全にしずくを「AV女優としてどう成っていくか」という目線でしか評価していない、おそろしくドライなやりとりである。加えて、「エッチが好きなのもいい」ともいう。修斗としずくはまだそういう関係にはなかったように見えたが、ホテルにいった日にでもあったのだろうか。そうでなくても、修斗はそれを見抜くかもしれない。性被害にあった子は、エッチが怖くなるかハマるかの二通りだともいう。

今の子は見た目がいいならインフルエンサーになるのがよいと粟生はいう。グラビアになっても薄給で接待要員でしかないと。その点、AV女優は身バレはしても単体になれれば稼げる。さらに、AV女優を続ける要素に関しては、粟生は鈍感さをあげる。病んでいる子はけっきょくだましだましやっていくことになる。その点にかんしてはしずくがどうであるかはまだわからない。だから修斗にメンタルケアは任せるというはなしだ。

 

さて、粟生のプロダクションが訴えられているはなしだ。会社名は「トゥールビヨン」という。代表取締役の小山という男が九条を訪ねている。あのまま、京極経由で九条が引き受けることになったようだ。原告は白石桃花という。

九条は率直に「負け戦」だという。できることは、マスコミを使ったような大事にならないようにすることだと。白石はすでに300本も作品を撮っており、業界もいまはクリーンになり、その前の契約とはいえ、果たして「強制」といえるのだろうかと、小山はそれほど怒っている様子もなく淡々と語る。それでも「負け戦」なのは、亀岡が強力だからか、あるいは潮流みたいなものを考慮してのことだろうか。

経緯としては、白石が女性の権利に目覚めたとかそんなことではなく、DV彼氏に耐え切れず亀岡のところに逃げ込んだということだ。それが、どういう転がりかたをしたのか、訴える相手をDV男ではなく会社にしたという流れだ。亀岡からすれば、いずれにせよ白石はこの世界の「被害者」である。傍からみれば亀岡が白石を利用したようでもあるが、彼女の意識としてはそういうことはないだろう。しかし、九条は承認欲求という語をつかって、思想や活動を弁護士の仕事に直結させるやりかたを批判している。

 

九条のところに亀岡から電話がかかってくる。争う前に、ということで、ひとことあるようだ。それは、九条の娘がAV強要されていたらどうするの?という問いかけである。九条は応えずに、小山がいっていたように、300本も取っていて強要なってありえるかというはなしをするが、その点について亀岡は応えない。そして、なぜ反社の弁護をするのかとさらに問いを重ねる。冤罪を生まないために、弱者としての反社を弁護するのはまだわかるが、九条のやっていることは犯罪の助長であると。なにをもって亀岡はそう判断するのか? 裁判を通して明らかになるべきことを、最初から結論ありきで、つまり正義を決定した状態で判断するのは弁護士として賢明ではない、そのように九条はいうが、弁護士の前にじぶんたちはひとりの人間であると亀岡はいう。そして弱者ではない強者としての悪人、つまり京極のような男に仕えたら、いずれ飲み込まれると、不吉に予言するのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

 

九条と亀岡が電話越しではあるがようやく接触した。亀岡は、別に今回の電話で九条に仕事を思いとどまらせようとしたとか、そういうことではないようだ。とはいえ先制攻撃的なものではあるようである。その内容はなにか。ここではまずふたつの問いが投げかけられている。ひとつは、じぶんが娘がAVを強要されたらどうするのか。もうひとつは、なぜ反社の弁護などするのか。このふたつは、感情的にたまっていたものが出てきたような口調でつきつけられているが、いっていることは同一である。それはそのあとのコマで出てくるセリフ、「あなた弁護士の前に人間でしょ?」というものだ。亀岡の九条に対する感想は、ここに結実している。たしかに、ひとは人間である前に弁護士であることはできない。法は世界をあまねく覆う地形図のようなものだが、「世界」そのものではない。そのように見えるよう、法律家によって日々努力が重ねられているだけの、「世界のようなもの」でしかない。この意味では、亀岡のいうことはもっともである。

憲法学者の長谷部恭男では、憲法は聖典ではなく、いっしゅのガイドラインである。それが限定していく日常で接する法律についても同様のことはいえる。たとえば、日本では自動車は左側通行ということになっているが、これは「左側通行」という行為そのものになにか意味があるものではない。そのように国内の道路事情に一貫性を施すことで、わたしたちは少なくとも「どちら側を走ればよいのか」ということを考えなくて済むようになる。そういうコストパフォーマンス的な意味合いについて、長谷部恭男はよく書いている。(↓この本はかなり易しい)

 

 

 

 

 

 

だから、もし進行する先にひとが倒れていたり、おばあさんがゆっくり歩いていたりしたら、わたしたちは急停車するなり右側によけたりしてもよいはずである。瞬間的に「左側通行」に反したからといって、道路交通法的に存在が抹消されるわけではないのだ。そのときに起動するのが亀岡のいう「人間」である(ちなみに長谷部恭男は同様の理路で、自衛隊が他国からの攻撃に対して「反撃」することは違憲ではないとしている)。

目に見える材料で塗装された世界はわかりやすい。それゆえにわたしたちは、数学の世界で数字を制御するように、法律の文言で世界を掌握したような全能感を帯びてしまいがちである。だが、数学の世界はある種の並行世界である。ある裁判の結果が未来永劫ゆるがぬ価値を持ち続けるということはないわけだし、どのような詳細な説明も、あるいは憲法のようにどのように大雑把な説明も、現象を取りこぼすことはある。そこで行使されるのが法律家の良識であるわけだ。

 

こうしたわけで、亀岡のありようは極端であると同時に本質的でもあるのだが、問題は、九条もそんなことは百も承知だろうということだ。理解したうえで、法律と道徳、つまり正義や善悪の判断を分けて考えているのだ。

九条がこのスタンスにたどりついた正確な経緯は、ちょっと忘れてるかもしれないが、まだ明らかにはなっていなかったはずである。もし「いついつにあなたこう書いてましたよ」とかあったら教えていただきたいが、いまいえることとして、まず道徳とか正義とかいった内的規範を「正しい」とか「正しくない」とか、裁判所のような現場でいうことはできないということがある。日常生活では、ある行為に関してそのどちらかの判断を下すことは難しくない。そして、それは別に表明しなくてもよい。だが裁判ではそうはいかない。こたえを出さなければいけないばかりか、それがひとの人生を左右もするのである。このためにおそらく九条は徹底的な法律と道徳の分別を実行しているのだ。彼が亀岡に対していった「思想」は、いってみればこの内的規範を理論化したものだ。それは、いつか常識に登録され、法律にも記入されていくかもしれない。だがいまはまだ記入されていない。とするなら、それは現行の遵法意識を阻害するものになりかねないのである。

この対立は、ずっと前に流木と山城の対立のときにも見られたものだが、九条もじっさいには山城のようなものと対立することもあるわけである。どうしてそういうことになるかというと、彼がよって立つものが法律以外にもうひとつあるからだ。それが、依頼人に対しての誠実さである。彼が優先すべき事柄はほかになにもない。なにもないというか、なにもない状態にすることによって、透明度の高い遵法性を保つことができるようになるのだ。こうみると、九条のありようは山城と流木のいいとこどりのようでもある。法を意図して即物的にとらえる姿勢は山城に近い。山城は法の外郭を見極めたうえで、どこまでぎりぎり遠ざかることができるかをしている。たほうで流木は依頼人への誠実さ、以前ノブレス・オブリージュという語をつかって説明した気がするが、専門家として全力で対応すべきであるという、職業倫理的なものでみずからに制限をかけるものである。法律家の抱える「高み」は、そうではない素人の依頼主の「低み」との関係性によって生じるものだ。たんにそのことによってもうけているとかいうことも含めて、専門家は、素人との対比によってそうなるのである。ことばにすれば当然のことだが、客がいなければ店は持続しない。素人がいなければ専門家はあらわれない。こういうところにある種の誇りが生じるはずである。この誇りが、意味づけを要求する。専門家は素人を正しく保存し、その「高貴さ」に根拠を加えるのだ。これが依頼人への誠実さということの正体であるとおもわれる。亀岡はフェミニストでもあるが、ここには「先に目覚めたもの」としての、後進への責任感のようなものもあるのかもしれない。いずれにせよ、九条と亀岡、流木と山城のありようは、原則的にはどちらのタイプが「正しい」ということはないだろう。ものが道路に落ちていて、停車して車をおりてそれをどかすのも、一時的に右側によけて進むのも、別にどちらがまちがっているということはないのだ。しかし、けっきょくはそれを裁判で争うことになる以上、九条のようなタイプは強いわけである。

 

しずくはAVの仕事に向いているというはなしだ。性被害にあったものが2通りの反応をみせるというのは、どこまでほんとうかわからないが、はなしとしては興味深い。いずれにせよ性被害はじしんの女性性を否定的なものにするはずである。これは要するに、それを抑圧するか、別の肯定可能なものに読み直すのか、どちらかだというはなしだ。性にかんする記憶が暴力の1シーンのみであったら、もしこれを忘れることができないとき、別の物語をそこに重ねて意味を薄くしようとする衝動が出てきても不思議はないわけである。だが、しずくは背後から思いがけず触れられただけでフラッシュバックを起こしてしまうほどこの経験を抑圧している。修斗のいいかたはまるでしずくがずっとそういう子だったというかのようだが、そういうことではないのだろう。彼女は今回の撮影で目覚めたのだ。といっても、セックスが気持ちいいということを発見したとか、そんなことでもない。じっさい、読み直してみても、しずくは性的な快楽にかんしてはひとこともくちにしていない。ただ肯定されることが楽しく、うれしいのだ。そして根本には修斗の肯定もあるわけである。「エッチが好き」というのは、そのぶぶんがないではないにせよ、評価としてはかなり浅はかであるようにおもわれる。

 

ただ、こうなってくると、以前にも少し書いたが、亀岡はフェミニストの活動家として、啓蒙がミッションでもある。彼女がしずくと遭遇したとき、亀岡は、しずくが純粋に信じ込んでいる肯定の物語を、交換体系の内側のみにおけるものであると、暴いてしまうのではないかという心配がある。いや、暴いてもらってもかまわないわけだが、気になるのはそのときにしずくの内側に起こるであろう世界転覆の感覚だ。性産業そのものに否定的な亀岡であるから、遠慮もないだろう。それが、とても心配だ。

 

 

 

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