今週のバキ道/第105話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第105話/モノの喩え

 

 

 

大相撲戦を負え、範馬勇次郎と接触、世界の広さを痛感し、じしんの強さを相対化できるようになった帰り道の宿禰を、横綱・零鵬が待ち伏せする。零鵬も弱くはないし、宿禰が強すぎるのだが、ほかの力士と比べても、いかにも彼はいいところがなかった。このままでは終われないのである。

とはいえ、あの試合からせいぜい三日後とかだとおもわれる。彼の肋骨は宿禰のアバラ投げによって砕かれており、ふつうに考えると力士としての復帰も難しい、というか歩けるのかという怪我なのだが、本人は問題ないという。零鵬は握りこぶしで宿禰に襲いかかる。宿禰がくりだすのは、四股立ちからの横蹴りである。これが零鵬の胸を貫く。今週の描写はこのあたりからはじまっている。

零鵬は肋骨の背面をやられているので、このままでもじゅうぶんなダメージになるはずだが、宿禰の蹴りはそれじたいとして完成しているっぽい。零鵬はアバラ投げのダメージとは別に、改めて胸骨のあたりを砕かれ、血を吐いて倒れるのだった。

 

光成のところにバキがきている。なにを話しているかといえば、勇次郎の「強姦(おか)すぞ爺いッッ!!!」発言についてである。そのはなしまだ掘り下げるのか・・・。それを、光成がバキに教えているのだ。

バキはどう受け取っていいのだが戸惑っている。そして「比喩ッッ」「モノの喩えでしょ」と、すごくふつうの反応をする。そうおもいますよね。ちがうんですよ。といっても光成は例のジョーのことは、知っているのか知らないかわからないが、少なくとも語ったことはなかったので、時期は不明だがいつか交わされた会話として、ここでは鎬紅葉の見解が参考にされる。勇次郎についての医師としての見解だという。そういいつつ、紅葉は「宇宙人の来襲」について話し始めるのだ。どんな生態なのか、どれほどの強さなのかもわからない相手が、「最強者どうしでたたかわせよう」と提案してきたとしたら。紅葉は迷わず勇次郎をカードとして出すという。そりゃまあ、「いちばんつよい」のは勇次郎なんだから、そうなるだろうけど、そういうことでもないらしい。げんにいちばん強いこと以前に、勇次郎のあの異常な体質に、彼は医師として着目しているのだ。

勇次郎はホルモンの量が別次元である。だから彼から見た全人類はみんな「雌」であると、紅葉は「飽くまで推理」だとしながら述べるのだった。いや、それいってたの秦先生じゃなかったっけとおもったが、よく読むと、紅葉は「わたしの推理」とはいっていないので、現在は紅葉もその発想に納得し、「医師としての見解」として共有しているということかもしれない。

 

そういう理屈が背後に想定できるなら、勇次郎の発言は比喩ではないことになる。そういうはなしだが、それは紅葉の仮説だろうと、バキがすごく常識的な反応をする。だいたいなんでそんなはなしをバキに、しかもうれしそうにするのか、たしかによくわからない行動でもある。その反応を受けて光成はバキを一喝、犯すぞ小僧と、なんだか楽しげにいうのだった。

 

さて、バキがいる同じ時間だろうか、光成邸の前に大男がきている。ジャック・ハンマーなのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

零鵬戦が冒頭で復習され、勇次郎の全人類雌のアレがまた出てきて、なんかよくわからん回だった。が、ジャックが出てきてくれてよかった。ジャックがでかすぎてなんかリュックがランドセルみたいに見えるぞ。

 

今回改めて勇次郎の雄度表現が出てきたのはなんなんだろう。というか、そもそもなぜ光成はこんなはなしをバキにしたのだろう。

勇次郎にかんする紅葉の見解は、おもしろいものがないではない。バキは血統なので例外として、これまであらゆるファイターが勇次郎に挑み、はなしにならない結果しか残せなかったのは、そもそも彼が人間ではないからなのだ。むろん、これは、一面的には比喩でもある。そもそも、たとえば独歩やジャックなどは、それこそ「人間ではない」動物とたたかってきている。だから、「人間ではない」ことは、勇次郎の強さの理由にはならない。そこには「じっさいには人間である」という但し書きがつくのである。この矛盾が、彼を特殊な「種」にする。人間か人間でないかと問う次元では、彼への議論は必ず矛盾する。だからそこには別の文脈が必要になってくる。それが、「強さ」をもとに再構築された種の概念なのだ。

雄だの雌だのいっている時点で、少なくとも勇次郎が生殖によって種を保存する「生物」であることはまちがない。その意味で「地上最強の生物」はいかにも正しい。この表現は、人間を当然含んだ全生物のなかで最強であるということを示していたわけだが、このとき想定されている生物の分布図のようなものにおいては、人間は弱いものとして、中央に位置しているはずである。人間がカバーする領域には、昆虫とか小動物とかは、これより弱いものとして含まれているだろう。だが大型犬や狼になってくるとそうとう強い武術家でももう怪しい。牛や馬となればもう人間のカバーしている位置からは遠く離れ、はるかかなたにライオンや熊や象やキリンがいることだろう。勇次郎が特異なのは、こういう分布図のようなものをイメージとして持ち込んだことなのだ。どういうことかというと、この分布図において想定されている「人間」とか「犬」とか「ライオン」とかいうのは、個人もしくは個体のことではないのである。「人間」はぼくのことではないし、「犬」もあなたが飼っているワンちゃんではない。これらはすべて一般化された、平均値的な図像でしかない。世界大会に出るレベルの極真の選手なら狼くらいは倒せるだろうが、色帯道場生では難しいかもしれない、そういう個別の事情のようなものは、ここでは加味されないのである。そしてげんに、たとえば独歩が熊とたたかうというときに、彼は、「熊」のなかの、固有名をもったなにものかを選んでたたかうのではない。人間からすれば「熊」は、熊間の優劣を問わなくても、どれをチョイスしてもじゅうぶん凶暴なので、意味のない問いなのである。こういう一般化から勇次郎は唯一逃れているのだ。つまり勇次郎は、人間を中心にして、強いほど外側に描かれる分布図のようなものを持ち込み、そのもっとも外側に、「勇次郎」という生物として描かれる、そういう世界を持ち込んだのだ。こう考えると、我々からすれば熊なんてどれを選んでも人間よりはるかに強い生物であるとなるところ、勇次郎はそのようには認識していない可能性が出てくる。つまり、彼は熊とたたかうにしても、たんに一般化された熊の内側から偶然的にその場にいる“彼”とたたかうのではなく、個体認識したうえでたたかっているという可能性だ。それはまた別の問題だが、すでにどこかでも描かれていたようにもおもうが、この「人間ではない」と「じっさいには人間である」が同居しうるというのが、この事態の表現なのである。勇次郎は人間である。しかし、強さという視点で分布図をつくったときに、彼はどうしても「勇次郎」という種として扱わざるを得なくなるのだ。こういうことを、紅葉はエイリアンの来襲の物語をつかって短く表現しているのだ。

 

で、なぜ光成がこのはなしをうれしそうにするのかということだった。以上の意味からすると、勇次郎は食物連鎖的な生命体のサイクル的なものには含まれていない。いや、食物連鎖には含まれているが、そもそもその「外側にいくほど強い」というような図が、勇次郎のいない世界にはありえないわけである。どんな生物にも天敵はいるし、勝負のつかない相手がいる。衰えたり怪我をすれば弱ってもしまうし、死んだら死肉を好むものや虫がそれを食べてしまう。強いとか弱いとかいうことは、その場限りの刺激の程度の表現に過ぎないのであり、ふつうは絶対的な意味をもつことはない。だが、勇次郎はそうではない。こういうことのある種の証明を、光成は勇次郎じしんのくちから、常人がことばを失うものとして、聞いたわけである。光成が年寄りであることもここには関係しているだろう。ともあれ、一般には「欲情」からは遠いとおもわれる、しかも男性であるじぶん、これが、「おかす」とされる、こういう勇次郎の世界に、光成は一瞬触れたのである。これはなにかというと、神の視点なのだ。くりかえすように、勇次郎がいない世界では、そもそも「強さ分布」みたいな図は意味をもたない。逆にいえば、勇次郎がいる世界では、この分布図がひとつの秩序の可能性として意味を帯び始める。このことに、そしてそんな世界にじぶんが属しており、しかも重要なポジションにいるということに、さらにいえばその秩序の中心人物から直接「対象」に選ばれたことに、光成はいっしゅの快感を覚えているのではないかとおもわれる。この快感は、分布図の中心に近いものほど強いのではないかと想像される。要するにバキとかになると、もうかなり外側のほうにいるので、そういう秩序があるのだとしても、かなりのぶぶん、意識せずに生きていけるからだ。だが光成はそうではない。彼はこのとき、秩序の発端であり管理者である勇次郎に、遠く感情移入している。マゾヒズムとは多くのばあいみずからに向けられたサディズムである。彼は、「こういう世界(強さで秩序づけられる世界)がじっさいに存在している、その片鱗をみた」ということを、バキに語ってきかせているわけだが、それは、地下闘技場の持ち主として、彼がじっさい求めているものでもあるだろう。このとき、光成は預言者のような気分になったかもしれない。もはやここにあるのは快楽ではない。勇次郎と光成のあいだをサディズムとマゾヒズムとともに行き来する「現象」である。

ただ、個人的には、以上のことはやはり光成が喜びとともに(ここまで厳密にではないにせよ)拡大解釈しているものであって、じっさいには今回の勇次郎の発言は「弾み」ではないかと考えている。というのは、彼は親子喧嘩でこうした分布図のような孤高の立ち位置を克服しているからだ。不良であることをやめた生徒がついうっかり先生に「あ?」とかいってしまうようなものだ。宿禰を評価したことでついうっかり優しくふるまってしまった照れもあるだろう。というわけで、ここまで書いておいてナニだが、この件はそう広がらないのではないかなと感じている。

 

今回もうひとつ反復されたものが、零鵬のやられかたである。なにもここを再放送しなくても・・・という感じだが、今回付け加わった描写といえば、宿禰の蹴りがおそらく怪我とは無関係に強力なものだったということだろう。冷静に考えると、零鵬は拳で打撃してはいたわけである。その衝撃で血を吐いてしまわない程度には「問題ない」ものだったわけだ。とはいえ、胸を蹴られたらさすがに響くとおもうので、あの蹴りが「四股」にほかならず、宿禰は邪を祓ったのだという前回の考察そのものに変化はないが、つかんであばらを砕き、張り手に比べたら不得手とおもわれる蹴りでも胸骨が砕けるというのであれば、宿禰とたたかうものは重傷を覚悟しなければならない。まさしく一撃必殺、なにをやっても相手の骨が砕けてしまうというわけなのだ。その意味で零鵬には申し訳ないけど「横綱」はいいサンプルとなったわけだ。あそこまで厚い肉に覆われていても関係なく骨が砕けてしまうということなのだから。勇次郎も消力を使わず踏ん張ってしまっていたら危なかったかもしれない。

しかし、とはいえ、である。その蹴りが、ピクルの前蹴りより強いとはおもわれないわけである。いったいなにがあの蹴りをそこまで強力にしているのかというと、やはりそれが四股と同じ経路をたどっているからではないかとはおもわれるのだ。彼は、足裏で踏みしめることで、大地から邪悪なものを追い払う。考えてみると、大相撲でも足裏の接地だけは許されている。足裏には、そうした危険なもの、触れるのがはばかられるものに接触できるだけのなにか強度のようなものがあるのだ。これを、信仰とともに、みずからの身体と対話しながら練っていったさきに、あの横蹴りがあるのである。

 

 

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