今週の九条の大罪/第26審 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第26審/強者の道理①

 

 

 

 

新章「強者の道理」のスタートだ!「自殺の心境」は3話で完結だったか。ふーむ、それはそれで、あそこで終わる意味を改めて考えないといけないな・・・。

 

前回初登場の京極清志だ。伏見組の若頭ということで、壬生はヤクザではないが、実質的な彼の親分ということになる。滑皮と丑嶋みたいな関係だ。

京極が銀座に買い物にきているところだ。都会には珍しいスズメ蜂を踏み殺す。ぱっと見ぎらぎらした感じの成金風でもあるが、袖からはがっつり刺青が見えている。

そんな、どう見てもカタギではない、が金持ちではある京極の持ち物をひったくろうと、若者がやってくる。すぐにそばにいたボディガードに捕まり、免許証をおさえられる。佐久間謙一という男だ。袋のなかみは時計らしい。取り押さえは下が通報はせず、個人情報だけおさえて京極はそのまま去っていく。

 

で、逮捕されたのが京極だというのが今回のはなしだ。ガラス越しに京極と九条たちが向き合う。金本の件をいっているのか、20日でチンピラを釈放させた噂を聞いて、九条(と烏丸)を呼んだようだ。

要するに佐久間が暴行されたということで被害届を出したのである。そんなアメリカみたいなことがあるのかともおもうが、たぶん、裏の事情があとからいろいろ出てくるだろう。怪我をさせたのはボディガードなので、彼らが実行犯、京極は「共謀共同正犯」になる。実行行為に加わっていない以上、ふつうの感覚では「教唆」程度におさまりそうなものだが、判例の堆積により、まったく手を下していないばあいも「正犯(実行者)」あつかいとする解釈が現在では一般的になっている。とはいえ、これはどうも日本独特の思考法のようである。

なんでもいいけど京極はとりあえずはやく外に出たい。だから示談したいが、佐久間が応じないと。監視カメラの映像をみた九条によれば、正当防衛は認められるだろうから、起訴されることはなさそうだ。そこで京極が、なにをおもったのか、電話をさせろと言い出す。だがそれはできないことのようだ。烏丸が「弁護士規定に反します」と、微妙に黙っている九条をフォローする。

じゃあ壬生に伝言頼むわと、京極は横柄にいう。弁護士なんて所詮鳩だろと。どういう意味か一瞬わからなかったが、伝書鳩のイメージを経たものだろうか。隠語で、捕まっているものが弁護士をつかって違法に連絡をとりあうことを「ハト弁を使う」ともいうそうである。

しかし九条は応じない。そういうことなら他の弁護士をあたってくれと。

 

 

 

「金と力があっても、法律の前であなたは弱者だ」

 

 

 

 

低いビルの屋上のふちに佐久間が立たされている。目の前には壬生。また壬生が暗躍していたパターンか?!ともおもったが、そういうことではないらしい。佐久間と壬生はこのときが初対面のようだ。だが佐久間は壬生を知っている。壬生は、「触ったらいけないとこ触ったんだ」と佐久間を静かにおどし、被害届を下げるよういうのだった。

 

近所で鳩レースがスタートしたんじゃないかというくらい鳩が飛んでいるなかで、烏丸が九条に今回のことについて注意を促す。九条は相手の属性で依頼を選別しないし労力に変化をつけたりもしない。だが京極は危険すぎる、生死にかかわると。

だが、もう遅い。京極は無事釈放され、壬生と合流している。そして、いまのところ嫌な感じはないが、京極は九条に興味をもってしまったのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

いちおう京極が続けて出ていることで「自殺の心境」から引き続いている感じはあるが、有馬や植田の気配はすっかり失せている。副題によるはなしの切り替えについても、ちょっととらえかたを変えないといけないかもしれないな・・・。

 

前回、実質「自殺の心境」の最終回となったはなしでは、植田の死にかんして、壬生が関与していたことが明らかにされた。あれを烏丸がじっさいに耳にしたのかどうかはけっきょくよくわからないのだが、ともかく事実として壬生は植田が首を吊るその瞬間、あるいはその直前まで、近くにいたのである。彼がどの程度関与しているのかというのは不明である。植田が死ぬといってきかないのを眺めていた程度なのかもしれないし、うまく死のうとするように仕向けたのかもしれないし、その中間のようなことかもしれない。ただ、ここに感じられる不気味さは、そういう程度問題ではないだろう。植田の前には、おそらく今後も語られることになるであろう、烏丸の親友、有馬の自殺についても語られていた。そこに加わったのが、九条の「本人の問題」発言である。これは格差社会を呼び込む自己責任論に直結した発想ではあるのだが、「科学の知」をもってして、事物を公平に、同じ地平のもとにとらえて配置していく場を必要とする法の現場に生きる弁護士には、必要な思考法でもあった。要するに、貧困はじっさい社会の、国のせいなのかもしれないが、植田の死を事務的法務的に「処理」するにあたっては、そんなことはどうでもいいわけである。どうでもいいはいいすぎにしても、「考えてもしかたがない」ことではあるわけだ。そこに、あの事物のモノ化、「科学の知」が現れるのだ。

自殺では、仮に遺書や、その以前の言動などからある程度の「心境」がわかるとしても、原則的には死んでしまっている以上、それを過去形で当事者に語ってもらうということができない。自殺を貫徹し経験した人物の語りというものが、この世には存在しない。であるから、「自殺の心境」というのもまた、語りとしては存在することができない。わたしたちが推測、もしくは想像するほかないのである。こういう現実がまずある。痛ましい死や他人事の死など、わたしたちが経験する「他者の死」にはいろいろある。自殺は、当事者がそれをみずから選択したというところに重点がある。ここに、九条の「本人の問題」が重く響く。選択している以上、無機質に事物を配置する「科学の知」においては、それは彼の望みなのである。そんなのはおかしい、とするのが薬師前の立場である。また、九条の語をそのままに受け取りつつも、「家具の哲学」を経由して感情移入を果たす烏丸は、有馬の「自殺の心境」の内実を推理することはやめられないだろう。

 

このようにして「自殺の心境」は描かれた。それはほどかれることのない謎だ。そこに、壬生のあの描写がさしこまれる。もちろん、そのことによって謎が解かれるというものでもない。くわしく描かれていないということでもあるし、植田の「真意」みたいなものは、仮にあのときにインタビューみたいなことができたとしても、ほんとうのところはわからないだろう。しかし、あのようにして壬生の存在がさしこまれることで、繊細に行われていた「自殺者の心境」に関する推理やスタンスの攻防は、九条のものも含めて、無効になる。パレードでこちらにやってくるミッキーマウスをわくわく見ていて、それが目前にきて興奮が頂点に達したとき、急にミッキーがかぶりものをはずし、「なかみおじさんだけど大丈夫?」とか心配な顔で確認をとってきて、ニコッと笑ってからかぶりなおしてパレードを続行するようなものだ。いままで読解の基底になっていたような「背景」が崩壊し、ぺろりとむけて、その向こうにある打ちっぱなしの壁が露出するような感覚なのである。

 

こうしたことと、京極の登場は関係している。前回も記したが、鍵概念は「ホワイトニング」である。といっても、いうほど彼はカタギっぽいなりをするものではない。おもいっきり刺青を出して、ボディガードのヤクザをつれて銀座をうろうろするような男である。ただ、日本ではヤクザは存在じたいが違法ということはない。海外ではマフィアが合法的に存在しているということはないので、おそらくそのような異様さが、ある種のロマンとともに、映画などを通して独特の「YAKUZA」を創造せしめるのだろうとおもうが、別にわたしたちはアウトロー集団を民族詩的に「受け容れている」というものでもないだろう。ともあれ、現実に「建前」を経由しつつも、また暴対法によりそれじたいは困難になりつつも、ヤクザはふつうに存在可能だ。この現実を象徴するのが「ホワイトニング」ということであろうとおもわれる。違法なものをロンダリングし、漂白することで社会化し、カタギの世界に存在することを可能としてしまうのだ。

これに対応するように、壬生や菅原などの半グレは黒い服を好んで着ている。また、ホワイトニングを社会化だとすれば、半グレはそうはなっていないことになる。京極には社会に居場所があるが、壬生や菅原はそうではない。結果として彼らは自己責任論的な「たよれるのは自分だけ」という発想になりがちである。それに導かれる状況があの過剰な筋肉の搭載である。頼れるもの、信用できるものは、自分か、もしくは信頼できる仲間だけだ、といいたいところが、菅原は久我に裏切られている。壬生もまたそのリスクを抱えているだろう。そうなると、じぶんの腕力以外最終的にたよりになるものはない、という発想がどこからともなくわいてきたとしても、不思議はないのだ。

 

このようにして、京極は、とりわけ壬生と対比したときに、アウトローとしての身分を存在可能なものとして社会化するのである。そして、このときに洗い落とされるものが、「自殺の心境」の最後に描かれた壬生の関与のような景色なのだ。これが、おそらく「強者の道理」なのだ。もちろん、「強者」といってもいろいろあるし、ひとまずそれは対九条、対壬生における京極ということになるだろう。だがそれだけではない。ホワイトニング、物事の社会化は、「強者の道理」を経由するのだ。そうして、「自殺の心境」は感傷的な家具の哲学も無効にして、ただなきものとされる。あのように壬生が関与していることがわかったいま、現時点の情報だけで植田の「自殺の心境」を推理することにどれだけの価値があるだろう。その無力感が、そもそも彼に「心境」などなかったかのように、ひとりの人間が自殺したという即物的な事実だけを置いて、時間を経過させるのである。同様にして、社会は常に、弱者の「心境」を洗い落として、ただモノとして配置する。そう考えると、おそらく薬師前が考えている通り、九条もやはりそこに加担してしまっているとみてもよいかもしれない。九条が壬生の植田の死への関与を知っていないとして、そのうえであの最期の描写は九条の「本人の問題」発言さえ無効にしてしまうが(そこには「本人の問題」すらないのだ)、それは彼が彼なりに弁護士としての仕事をまっとうした結果でもあり、それが知らず知らず事態を悪化させてもいるのだ。

 

 

そのうえで、九条と京極がどう対立するのかということが本筋となるのだろう。ふつうに街を歩いていれば、京極は圧倒的強者だろう。だがそれがひとたび法に評価される状況になれば、京極は無力になる。すると「強者」とはなんだろうか。ここまでのはなしでは、「強者」とは、社会を成立させるために不要なものを隠蔽する立場だ。じっさい九条も、法の番人である際には、裁判を公平に行うべく、事物のモノ化をはかり、捨象する。冒頭の煽りにもあるが、「強者」は絶対ではなく相対である。その条件は、さまざまあるだろうが、京極と九条にかんしては法ということになる。となれば、今回のポイントは、法が評価を開始するポイントはどこなのか、ということになるだろう。

 

 

気になるのは佐久間である。見たところ彼はほんとうにただのひったくりのようだが、あんな、どう見てもヤクザ、少なくともカタギではない男をねらってどうするかというはなしで、しかもそこから被害届を出すというのもどうもうそくさい。佐久間じしんは無力っぽいので、背後に誰かがいるということかもしれない。いままでの感じだとそれは壬生ということになるが、今回彼は関係していないようだ。なのでまだキャラクターが出てくる可能性もあるな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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