今週のバキ道/第90話 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

第90話/速さ比較べ(くらべ)

 

 

 

 

バキの蹴りをかわした炎が背後をとり、バックドロップを決めた!

どうも決める気だったっぽいバキは、思いがけないタイミングで猛烈なダメージを負うことになった。バキは、投げられる直前にその衝撃を予感し、戦慄していたが、彼は地面に叩きつけられなかった。闘技場の柵に、真上から後頭部を打ち付けられたのである。瞬間的に予想し、準備したであろうタイミングより早く衝撃がやってきたことは、たぶんけっこう大きい。おもったより階段が一段浅かった、とかでも人間はケガをするのである。

 

バキは白目をむいて気絶しているように見える。観戦中の独歩、渋川、花山が「イヤな落ち方だ」という。いや、花山はしゃべらないので、独歩と渋川が説明する。ポイントがせますぎて受け身がとれなかったとはいえ(バキはそもそも後ろに柵があるとおもってなかったっぽいわけだが)、あのタフなバキがバックドロップで気絶、ということに光成は驚いているようだ。なんかよくわかんないけど微妙にずれてる感じもするな。素人だったら死んでしまうような大技なんだし、いくらバキでも気絶はそこまでへんでもないようにおもうが。

だが、そもそもあれはバックドロップではないと金竜山はいう。相撲の技術が含まれてるとかそういうことかとおもったが、もっぱら炎のパワーにかんするはなしだ。同じはなしを独歩たちもしている。炎は、100キロに満たない身体で160キロを超えるような相手を寄り切る。寄り切りって、イメージ的には「押す」いっぽうの動作のようだけど、あの盛り上がった俵に引っかかった相手の足を抜くには、持ち上げなくてはいけないということかな。機能としてはデッドリフト的なものになるのか。そういうわけで、独歩はその背筋力を300キロほどと踏む。このバックドロップには、その300キロに、炎とバキの体重が加算され、およそ500キロの重さになっているというのである。ちょっとそれで正しいのかよくわからないが、強い衝撃になるであろうことは計算しなくても明らかだ。

 

と、バキが目を覚ます。というか、別に気絶してなかったかのような感じで、「そうなんだよ・・・」と始める。

 

 

 

「現在(いま)の相撲は止めを刺さないんだ

 

だからこうしていられる」

 

 

 

ひとつ呼吸をして、バキが素早く立ち上がる。バキの顔は異様なほどすっきりしており、汗も引いている。そして、速さについて炎に語りかける。角界ダントツの敏捷さなんだよねと。バキは速さ勝負をもちかけるのだった。

バキがさしだした右手の人差し指に、炎も左手を伸ばしていく。対手のようでもあるが、同時に手をついたところで開始する、まさに相撲の試合開始のあのときのように、人差し指が触れ合った瞬間、炎が人間離れした速度でバキの背後にまわりこむ。正面にいるものの背後にまわるのだから、動きは曲線となるはずだが、速すぎて直線的にバキのからだを通り抜けているように見えるほどだ。

しかしバキはそのうえをいく。まわりこんだ炎の正面にはすでに彼がいない。その炎の後ろに立っているのである。

首をとられてはまずい。炎はそのあたりを腕でかばいながら素早くしゃがみ、その場を離れる。だがそこにもバキはついてくる。炎の張り手が、今度はバキが速すぎるせいで通り抜ける。再び背後をとられた炎は、バキの強烈な左ハイキックを受けてしまうのだった。

 

 

 

 

つづく。

 

 

 

ハイキックを決めたあと、バキはまたひとつ呼吸をしている。これは、起き上がる直前にバキがしているものとよく似ており、逃れの呼吸的なものとおもわれる。相手にわからないように深く呼吸をすることで回復をはかっているのである。つまり、いまのバキにはまだバックドロップのダメージがあるのだ。それを、話術と、身体を揺さぶらない速さ勝負にすることによって、時間をかせいで、取り戻そうとしているのである。

もしそうならたぶん次回説明があるとおもうが、これはいかにも相撲にはないふるまいだ。10秒か20秒か、ごく短いあいだとはいえ、全力で前進し合う勝負の世界で、「効いてないふり」をして回復をはかるなんてことは、あるいはすごく勝負のうまい力士なら、あえて膠着状態にもっていって回復するなんてこともあるかもしれないが、基本的には考えられないわけである。で、このことは、バキじしんが今回語ってもいる。倒れている敵に攻撃しないという、そのことについてだ。倒れているあいだに攻撃しないからこそバキはいまこうして立ち上がれた、というはなしになるので、完全に回復するまで気絶しておればよかったものを、あえて立ち上がるのは、もちろん理由がある。つまり、バキの演出としては、このバックドロップは別に効いていないのだ。バキはここで、攻撃されないことによって回復した、ということをいっているのではなくて、そうすることによって相撲の「現在」を示してみせた、とでもするかのような行動をとっているのだ。だから、完全に回復するまで、1分2分と休んでいることはできない。たぶん一瞬気絶はしただろうけど、それを彼は相撲の「現在」を明らかにするという身振りに翻訳して、本当はまだ微妙に効いてるんだけど、それじたいはどうってことないというふうにふるまうほかなかったのである。

そこで速さ勝負というのもわからないといえばわからないが、まず相手との接触を避けて脳を不用意に震動させないことが重要なのかもしれない。速さ比べといっても、ふたりは背後のとりあいをしているだけなのだ。

 

このやりとりをみておもったことは、炎は練習試合のときから相手の背後をとる戦法をとっていたわけだが、これは普段の相撲でも見られる技術なのだろうかということだった。別にやってても不思議はないけど(そういう取り組みをじっさいに見たことがあるような気がする。舞の海とか)、いままでの「巨人であることを求められる」という文脈でいうと、そういう、小さいことを利用したやりかたは、積極的には採用されないんじゃないかなという気はする。もしそうだとすると、炎は最初から「ここは土俵ではない」ということを意識して素早さを発揮してきたことになってしまうが・・・。いや、角界いちの素早さだというはなしが出るくらいだから、やはり常識的な範囲では、炎もそういう戦法を選択してきたのかな・・・。しかしそれだけではやっていけないと。その結果として、彼はあの腕力を身につけることになったのだ。

 

もうひとつおもしろかったのは、やはりその、倒れた相手を攻撃しないという、相撲の「現在」である。この指摘はバキがはじめてというものでもないし、指摘の内容じたいもどうということもないものだが、バキがくちにすると少し別の色を帯びることになる。というのは、バキは斬り登るしかない宮本武蔵に対して、「いまはそういう時代じゃない」ということをつきつけた人物だからである。

出血で動けなくなった花山にとどめをさそうとする宮本武蔵の前に、バキが立ったときのことだ。誰が見てもすでに決着はついているが、武蔵はこれは「決着」とはいわないとして最後までやろうとする。まあ、なにしろ花山なので、ほんとうに“この後”がないといえるか?といわれるとわからないので、最後までやりきるのが正解のような気もするが、バキはそこで、「現世(ここ)では決着なんだよ」と武蔵を一喝するのである。そういういいかたをされると黙るしかないというか、ぼくも新しく入った会社で「うちではそうなんだよ」といわれて黙った経験があるので、武蔵の気持ちはわかるが、ともかく武蔵は、反論も反撃もなく、そこでたたかいをやめてしまったのだった。

武蔵に関しては以前4つの記事にまとめて書いたので、ぼくじしんそれを参照しつつ書くが、武蔵とバキの対立は、闘争のリアリティがどこにあるのかということだった。花山のことでいえば、武蔵は最後までやらないといけないという立場だが、バキはもう決定しているという立場である。ややこしいが、バキが代表する近代格闘技のありようは、武蔵のリアリティを否定するものではないのである。それは、ルールや技術体系のなかに内面化されている。「最後までやらなければわからない」は、経験と落としどころの発見によって、すでに克服されているのだ。つまり、たとえば極端なことをいえば、テンカウントで起きない選手は、それ以降もしばらくの間まともに動けないことは明らかである、であるなら、「その間にとどめをさすことができた」ということの可能性はかなり高くなるのだ。

この、「最後までやりきらなくても勝敗を明らかにすることができる」という近代格闘技の源流にこそ、実は武蔵がいた。これを記事では「自然な武蔵」と呼んでいる。わたしたちが知っている、吉川英治などを経由してフィクションとともに認識する、あの宮本武蔵である。これを発展させ、消化して内面化し、法治国家としての成熟とともに結実させたものが近代格闘技である、というわけだ。対して、あの時代の価値観のまま、現世にやってきてしまった武蔵はいかにも「不自然な武蔵」なわけである。時系列的にそうであるというばかりでなく、以上の考えからすれば、そういうものが存在するはずはないのだ。それが例のバキの、武蔵は「いちゃいけない」というはなしにつながるのであった。

 

 

こういう印象的な発言のあるバキが、相撲の「現代」を語ったのだ。微妙なニュアンスが感じられてしまうことは不可避である。バキが体現するものは、近代格闘技の結実である。今回のように、話術などもこみでとられているふるまいが、宮本武蔵からはじまり、ルールの整備を経由したそのうえで超人的なものとして働くのだ。この「話術などもこみ」というところが理解を困難にさせるが、大雑把にいって、倒れている敵を攻撃するのは「あり」だが、それでも、ある段階をこえたところでは「決着」は自然と判定されるものである、というふうにでもいえばいいだろうか。倒れたものに追撃するようなぶぶんはバキたちにもある。だったらなぜ座り込んだ花山を斬ろうとする武蔵を、バキはとめたのかというと、花山は明らかにもう動けなかったからである。だから、これは程度問題ということにもなり、だとするならくっきりと量的に表現可能なものさしが必要になってくるし、そうでなければ個人の主観ということになってしまうが、たぶんそれが「ルール」というものなのだろう。テンカウントや、上段に蹴りが当たって倒れたら一本とか、そういうのが、たぶん成文法的な意味での度量衡なのだ。

対して相撲は武蔵を源流にした格闘技とは別ルートで成熟してきた。そのみなもとには野見宿禰がいる。宿禰の古代相撲は、いまだに姿の不明瞭なものだが、おそらくはバキたちの格闘とそう差のないものだろう。これが実る過程で、たとえば「倒れたものへの追撃」はなくなったわけである。ルールとして不必要と判断されたのだ。なぜなら、それをしなくても、それが必然的に導かれるであろう状況を、もっと安全に実現することはできる(と、大相撲は考えた)からである。バキたちからすれば奇妙でも、大相撲的には合理性があるはずだ。まあ、大相撲の難点は、宿禰的にはもっと別のところ、貴族のものとなり、大衆から当事者意識を欠き、「見るもの」となって、背景に別の要素(スポンサー、テレビ、観客、八百長)を宿すようになったことなので、またはなしはややこしくなるが、それでも必然性はあるはずだ。これはまったく、武蔵がバキたちに対して「なんで最後までやらないの?」というのとちがわないわけである。バキたちに必然性があったように、相撲にも必然性はあるのである。ひとつ、バキたちと武蔵でちがうことがあるとすれば、バキは近代格闘技の実りであるということだ。武蔵のころは、武蔵のようなものはそういなかった。単独の強さをあそこまで極めたようなものは、いたかもしれないが、独自の理論書を書くほどのものにはなっていなかった。しかし現代はそうではない。時間に磨かれて、いくつもの反証を経由して、すっかり鍛え抜かれた結果、しかもその最強者がバキなのである。だから、バキと炎は、立ち位置的には対等となる。バキと武蔵では、武蔵は「いちゃいけない」ので、黙るしかないこともあったが、炎はそうではない。つまり、この議論は、両者が信じる道の必然性についてのものなのだ。

そして、その相撲の源流にいる宿禰がバキサイドにいるというのもおもしろい。そろそろ、なにかこう、ひとこといただけたらとおもうが、宿禰はどこでなにをしているのだろう・・・。

 

 

 

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