第14審/家族の距離⑥
九条の依頼人は家守華恵という女性。施設に入居していた父親が全財産寄付するという遺言書を無理やり書かされたので全額取り返したいというものである。その施設は「輝幸」というもので、つい最近、師匠であり、父親のような存在でもある山城弁護士から紹介された菅原の運営するものだった。そして、その遺言書作成には、山城も当然関わっているのである。
当初は乗り気でなかった九条だが、もうひとりの師匠でもある流木のところに顔を出し、方針を定め、山城のところにやってきたのである。
山城はルームサービスを頼もうという。こんな暮らしとは無縁なのでよくわからないが、ここは家ではないのか。家に居場所ないっていってたもんな。
山城は九条のテント暮らしを持ち出して、ともかく食事をするようすすめる。九条は、オートファジー効果で免疫力があがることを期待して、食事は一日一食なのだという。あと集中力。たしかに、おなかがすいているほうが集中力は高まる感じがある。シャーロック・ホームズも似たようなこといってた。しかし、九条は最初のころ、明太子をじか食いしてたよな。一食って、まさかあれのことか?
山城は肉やパンを大至急もってくるようルームサービスに頼む。「息子の健康の心配しない親がどこにいるか」ということで、あくまでじぶんは父親のようなもので、九条のことを息子のようにおもっているというスタンスを強調する。むろん、いまから持ち出されるはなしを牽制してのふるまいだ。そこで、山城は話に水を向ける。九条はまったく、ぜんぜん遠慮なく、ぺらぺらと、出方次第では刑事告訴まで考えていると述べ立てる。亡くなった家守繁典は認知症が進んでいたから、正しい遺言が残せたはずはないと。
本来なら争ってもかまわないが九条のためにと、山城はあくまで上位の立場であることを示しつつ、遺留分相当額で手打ちにしないかともちかける。コマ外に解説があるが、「遺留分相当額」とは、遺言書の内容に関わらず近親者が請求できる、最大で相続の2分の1にあたる金額のことのようだ。だが、華恵の依頼は全額返済である。その提案は呑めない。つまり、争うほかない。山城は、親であるじぶんと刺し違える気かという。九条は、一拍おいて、はいと応える。ささいなことではあるが、九条は「親である」のぶぶんは否定していない。だとしても刺し違える、ということをいっているわけである。
山城は態度を豹変させて、たしかに「はい」といったのかと、くりかえし確認するが、九条はそれにも「はい」と応えてにべもない。
「私は依頼者に対して誠実かどうかです」
九条は、たぶん流木由来のこのスタンスを示す。去り際の九条の表情はなにかさびしげであるが、山城はただ怒るばかりである。
スーパーで買い物中の華恵の描写だ。会計でモタついているおばあさんにイライラしている。そこへ九条から電話がかかってきた。いろいろいっているが、要するに、役所に介護の資料を請求して、作成時に遺言能力がなかったことを証明しようというはなしだ。確認がとれたら訴訟を起こす。
華恵はずっと高齢者にイラついている。そこで耳にした「マズイ」という言葉で、華恵はむかし父親がスーパーで騒いだときのことを思い出す。タイガーバームをくちにいれてまずいまずいと大声を出して騒ぐ父の姿だ。試供品なのか、商品を開けたのか、とりあえずタイガーバームは軟膏なので、おいしくはない。はだしだし部屋着っぽいので、家からひとりで出て徘徊してしまった感じなのだろう。
父のことを思い出し、華恵もいっしゅん悲しそうな表情になるが、すぐにもちなおして再び鼻を鳴らしてイラつきスタンスに戻るのだった。
つづく。
ウシジマくんもそうだったけど、あるテーマにしぼって書いているようでも、真鍋先生の物語はそのほかのかんけいしている論点がじゃぶじゃぶ出てくるよな。まあ、「家族の距離」ということなので、ひとくくりにできるといえばそうなんだけど。
以前、山城に息子のようにおもっているといわれたときの九条はほんとうにうれしそうにしていた。九条には見た目以上にきつい仕事だろう。
今回のおはなしにはいくつかの家族が登場している。まず、もちろん九条の実家である。彼の父親はすでに亡くなっている。九条のもとの名は鞍馬で、彼には蔵人という、「規矩」という語を具現したような兄がいる。兄は検事で、出来の悪い弟を認めていないし、九条は父とも仲が悪かった。その「仲が悪い」というのが具体的にどういうことなのかはまだわからないが、縁を切られるレベルのものではあったらしい。そして前後はよくわからないが、5年前に山城のもとから独立して、いまの事務所を設立した。
その「九条」という名前は、もと妻のものである。いまは離婚しているので、これもまたどういう手続きでそうなっているのか不明だが、こちらもまた「家族」である。娘の莉乃は5歳になったところで、父・鞍馬の命日と誕生日がいっしょだ。離婚はこの5年以内ということだが、莉乃が生まれたのと九条事務所ができたのはほぼ同時ということになる。それで、じぶんの思い込みでちょっと勘違いしていたが、いま読み返してみたら、鞍馬の死は5年前とは描かれていない。だが、どうも「5年前」が特異点的ななにかにおもわれるので、そのあたりなのではないかなという気もする(前に考えたような気もするがどの記事なのかわからない)。
そのあとあたり、前エピソードの曽我部父子も登場していた。曽我部は父親の行動を通して金本を告発する決意をしたとおもうので、これも重要な「家族」と見ていいだろう。特に父に関しては、まだ金本父に関してほどけていないものがあるので、再登場の可能性もある。
次に、山城、流木という、九条のふたりの師匠が登場した(次、じゃなかったかもしれないが)。人権派の流木は理念面での、俗物の山城は実務面での師匠であり、山城などは九条を息子とおもっている。流木もたぶんそうなのだろう。これも「家族」と考えられる。
最後に、家守ということになる。つまり、ざっと見ただけで、鞍馬、九条、曽我部、山城・流木、家守の、5つの家族が展開において交わっていることになる。論点がいっぱい出てきて当然だ。「家族の距離」ということを考えるのであれば、これらをひとつずつ見ていかなければならないが、いちどには無理なので、展開に沿ってじゅんばんに読んでいかなければならないだろう。
ひとつ、これもまた些細なことではあるが、ニュアンスの問題として、「家族との距離」とかいうタイトルではないということは注目してもいいかもしれない。こちらの場合、目線は家族に向けられることになる。ある人物の後頭部側にカメラが置かれて、家族のほうを見て、その距離を感じている、というニュアンスになるのだ。では「家族の距離」はどうかというと、より即物的というか、距離そのものを問題にしたような感触になる。つまり、前者では、人物を経由して、近いものであれ遠いものであれ、そのひとの家族が視野におさまることになるので、そこには感傷的な響きが伴うことになる。しかし後者では、「家族の成員間の距離一般」とでもいうような、第三者的な視点が感じられるのだ。このことからも、このタイトルが複数の「家族」を想定したものであることがわかる。
さまざまな「家族の距離」が並列的に描かれるとき、なにが起こるのかというと、むろん、比較が行われる。比較は通常、当然とおもわれているものの異常性を検知する手段となる。つまり、この「複数の家族が同時に描かれる」という展開じたいが、「家族」というものがひとくくりには語れないものであるということを示しているのである。
だが、そうした家族像のあいだにあるわずかのずれが、事態を立体化し、ひとつのイメージをうっすらとあらわすことがある。レヴィ=ストロースが見出した神話の働きだ。しかしそれは、個々の物語とそれらがもたらす差異が真実をあぶりだす、というようなロジカルなものではない。つまり、いろんな家族を登場させて、ぜんぶたして割り算して平均値を出す、というようなものではない。ここにあらわれるものはもっと言語化の難しいものだ。「家族」のあらわれかたは様々であり、なにが正解というものは、社会通念上そう考えられている、というような状況を除くと、ふつうはない。にもかかわらず、わたしたちにはそれぞれ「家族」があり、それが当たり前のものだとおもっていたり、あるいは異常だと感じていたりする。そのときに見出される、イメージの奥に結ばれるものが、そのときどきで真実になりうる。そういうものだろう。だから異なる家族の重なりありが導くのは、たんに「家族」という宇宙の全体である。
生物として、種の存続のために血族が身を寄せ合う、ということはまた別として、一般に「家族」という語が含むイメージは、人工的なものである。日本語の「家庭」は、明治時代に輸入された英語のhomeの翻訳語であって、そこには19世紀ヨーロッパの中流階級の家庭の景色が含まれており、これが転じて、日本でも「家族とはこうあるべき」という像になっていっただけのことだ。そうすることが、国にとっては必要だったのだ。これが外部的な「家族」となる。この流れで、「家族の距離」が並列的に描かれるとき、それはおのずと「『家族』との距離」にもなるわけである。Homeの翻訳としての「家族」が優等生であるとすれば、多くのばあいはそこから多少の差はあれずれているはずだ。当然そうなる。ひとは、文化的規格に沿って生まれ、関係性を育むわけではないからだ。「家族の距離」は、「成員の距離」一般を描くものであると同時に、それぞれの「家族」どうしの差異、つまり距離をあらわすものでもあるのだ。
さて、そうしたところで、少なくとも今回にかんしてもっとも注目すべきは九条・山城と、家守の家ということになるだろう。鞍馬の家はおそらく作中最大のテーマになるはずなので引っ張るとおもうし、九条家も同様である。曽我部家はたぶんこのはなしの最後あたりに出てくるのではないかと予想する。そうすると、中心になるのはこのふたつということになるはずだ。
今回の山城の言説は、典型的な毒親のものであるようにおもわれる。彼は、悪いことをしたわけである。問題は九条が、それを「親(のような存在)だから」という理由で、胸のうちにしまうべきなのかということだった。だが九条は弁護士としての使命、依頼人に対して誠実であることを選ぶことになった。問題なのは、九条はこの件に関して山城が弁護士だからこそそうしたようなところがある点である。流木は、山城を止められるのは九条だけだ、というふうに言っていた。弁護士として、九条がそうした行動をとるということを、ほんらいの山城は理解できるはずだ。この、「九条だけが山城を止められる」という流木のことばは、九条の弁護士としての実力にかんしていったものではない。山城との関係性について語ったもののはずだ。そうでなければ、山城を超える弁護士はこの世で九条のみというはなしになってしまう。では、九条だけが山城に関して持ち得るものはなんなのかというと、関係性である、ということになるわけだ。では、それはどのように働くものなのか。これは、おそらく、両者が同類である、ということを、流木はいっているものとおもわれる。もちろん九条には流木の教えも生きているので、完全に同一ではないが、実務面で九条は明らかに山城の強い影響下にある。そして、たとえば九条は、壬生が菅原のようなことをはじめて、遺言書作成に加担してほしいと言い出したとき、どうするのか、ということなのである。依頼人に対して誠実であるべきとする九条は、明らかに悪いことをしようとしている依頼人に対して、どういう態度をとるべきなのだろうか。それは正直よくわからないが(九条ならやりそうな気もしないでもない)、少なくとも両者はたがいの思考をトレースすることはできるのである。
かくして、九条には山城を止める使命が生じる。もし九条が山城と同一の行動をとるのであれば、これを止める理由はないだろう。依頼は断ることもできたし、じっさい知り合いの弁護士を相手にするというのは、常識的に考えてやりにくいから、断る理由としてはじゅうぶんなのである。しかしその仕事を買ってでるのは、彼はきっと山城と同じようには動かないからなのだ。この分岐点に流木はいるわけだが、そこに至るまでの流れは、九条と山城では等しいのだ。そして、おそらく、以上の過程を、山城もまた理解している。であるから、彼は「家族」という呪力を行使する。「親である自分と刺し違える」という行為は、通常厭われる、という規範を持ち出すことで、事態を回避しようとするのである。山城はたぶんほんとうに九条のことを好きだし、九条もうれしいのだろうが、ここには、じっさいの家族にもありえる景色が感じられる。それは、関係性が結果として生じるものなのではなく、既存のもの、ゆるがぬ現実のものとして持ち出され、規範として行使される状況、つまり毒親的な状況なのである。毒親的状況は、こうした「結果としての関係性」の転用なのだ。
家守についても詰めるつもりだったけど、描写もまだ少ないし疲れてきたのでここまで・・・。家守にかんしてはこれまた非常におもいテーマである「老い」がメインになる。ひとはなぜ、じしんもまた陥ることになる「老い」の状況にいる人間を、このように扱うのだろう。言葉にしてみただけでずっしり重いので、やはり今日はここまで。
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