『悪について』エーリッヒ・フロム | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

■『悪について』エーリッヒ・フロム著/渡会圭子訳 ちくま学芸文庫

 

 

 

 

 

 

 

 

「私たちはなぜ生を軽んじ、自由を放棄し、進んで悪に身をゆだねてしまうのか。人間の所業とは思えないような残虐きわりない行為がくり返されるのはなぜなのか。悪は人間であることの宿命なのか。『自由からの逃走』で、自由の重荷に耐えかねナチズムへと傾倒していく人々の心理状況を克明に辿ったフロムは、本書でその考察をさらに深め、人間の本性と悪との原理的な関係に迫る。人を悪へと導くさまざまな要因を究明するなかで、しだいに「人間らしく生きること」の本当の意味が浮き彫りにされていく―。代表作『愛するということ』と対をなす不朽の名著を清新な訳文で」Amazon商品説明より

 

 

 

以前、アベンジャーズの敵キャラであるサノスについてツイッターで書いたときに紹介していただいた動画で、興味を持った1冊である。

 

 

 

 

 

 

 

エーリッヒ・フロムそのものは実を言うとずいぶん前に『自由からの逃走』を入手していたが、いつものように本の山のなかに埋もれている。読み始めてもいないのでただのイメージだが、なんとなくすごい時間かかりそうな感じがして、後回しにしたのだとおもう。「なぜすでに自由を獲得している市民が、みずから主体的に自由を放棄してファシズムに熱狂するのか」というおはなしだ。これは現代でも見られる景色であって、どこでも指摘されるように、フロムのアクチュアリティには驚いてしまう(が、実は驚くことでもないということが、本書には予言的に書かれている)。こういう内容なので、まあ、ちょっと一筋縄ではいかなそうだなと。しかしながら、本書を読んで、フロムというひとがおそろしくリーダブルな、「読者」をきちんと想定したものを書くひとだということが判明した。プロフィールをみても、どうしてこういう文体になったのか、理由はわからないが、大学では社会学を学んだのちにフロイト派の精神分析にうつった社会心理学者である。社会学が基礎にあったうえで、人間の本質に踏み込んでいるので、当然考察範囲は学際的なものになり、関心の方向性としてもそうだった。その結果として、専門的なものよりばらけた背景描写のようなものに長けていったのかもしれない。まちづくりについて勉強していたものが建築家になったようなものだ。

 

これが最初に読んだフロムということになるのだが、どの著作にも共通してあるものが、善や悪や自由ということになるようだ。本書はフロムじしんの位置づけでは、『自由からの逃走』の続編であり、『愛するということ』とは対になるということである。核戦争の不安のなか書かれた本書は、とりわけ人間の「悪」について論じたものということになる。これを、フロムは「ネクロフィリア」「ナルシシズム」「近親相姦的共生」の三つの視点から分析し、これらが結びついて形成されるものを「衰退のシンドローム」と呼んで、ヒトラーを顕著な一例とすることになる。

「ネクロフィリア」とは、“死者を愛する”という意味だ。一般にこの語が用いられるときには死体と性交したいとか所有したいとかいう倒錯について語るものだが、ここでは人間に程度問題として誰にも備わっている「傾向」として考えられている。それは、むろん死体も含むことになるが、無機物、つまり生きていないものに関心をもち、こころ惹かれるということだ。これに対立するのが「バイオフィリア」で、これは生を愛するということになる。こう書くと、すぐに浮んでくるのはフロイトのエロスとタナトスで、本書でも言及されている。フロイトは、当初エロス、生の本能のみで精神の運動を説明していたが、第一次大戦後、戦時の嫌な記憶を夢で反芻する症例と出会い、これを撤回、もしくは修正せざるを得なくなった。ごくたんじゅんにいって、「快」を求めることが人間存在の根本だとするなら、見たくない夢をみずから呼び起こしていくということは考えられなかったからである。つまり、ここにはそれを求める力動があることになると。それが死の本能、のちにタナトスと呼ばれるようになる衝動だった。これを、ぼくは見落としていたが、フロイトは例の反復強迫によって、生の発生以前のところに戻ろうとするものだととらえたようである(本書57頁あたり)。この、人間のなかにある矛盾した衝動を、フロムは本書で発展させた。死の本能は、生の本能と学問的には等価に、対立しつつ、ひとつの原理のなかに回収されるものではなく、生の本能が行使しきれないときにその場所を埋めていく現象なのだと。

「ナルシシズム」もフロイトの概念で、フロムはこれを応用・発展させていく。生まれる前、あるいは生まれたばかりの赤ん坊は絶対的なナルシシズムのなかにいる。世界と自己は海のように連続しており、日々の不如意の経験から、赤ん坊は「じぶんではないもの」をひとつずつ発掘していき、自己を形成していく(フロイトでは最初の衝撃は「お乳がない」ということになる)。もしこの「世界とは私のことである」という、赤ん坊のナルシシズムを、強大な権力者が抱えることになると、過剰や排除があらわれてくることになる。要するに、多くを欲しがり、「他者」を目の入らないところに追いやる、場合によっては虐殺するのである。不如意の他者と遭遇することで自己を変化させるのではなく、自己にあわせて世界のほうを変えてしまうのだ。だが、ナルシシスティックな傾向そのものは、ネクロフィリアと同様、どんな人間にもある程度は備わっており、それどころか、それがなければ、人間の生存はかなり難しくなるだろう。じぶんのことをまったく大切におもわず、肉体的欲求にまったくしたがわずに長生きできるものがいるだろうか。これは、動物にはある「本能」のかわりに人間が授かっているものだとフロムはいう(94頁)。しかし、それが極端なものとなると、社会生活が難しくなり、別の面での生存の危機が訪れる。このパラドクスを解消するのは、その程度問題と、ここがぼくでは本書最大のポイントとなったが、個人のナルシシズムを集団のナルシシズムに読み換えることである。集団というのは要するに氏族や国や民族のことなのだ。

三つ目の近親相姦的固着もまたフロイトの理論である。が、ぼくの感覚ではここでのフロムの説明は、前のふたつ、ネクロフィリアとナルシシズムを踏まえたものとなっており、厳密には三つが三つ別個にあるというよりは、近親相姦的固着の視点を導入することによって、この三つがある種の属性のもとに読み取られ、破壊や死を導く悪の様態を形成する、というようなところになっている。というのは、そもそもこの三つが導くものが衰退、「退行」にほかならず、ネクロフィリアが無機物に戻り、ナルシシズムが赤ん坊の感覚に戻り、近親相姦的固着では母の子宮が求められるといった具合に、衝動が到達するゴールが近づくにつれ、それらのあいだにはほとんど差がなくなってくるからである。

 

かなり大雑把に見てきたが、こういう具合に、死や破壊をもたらす人間の衝動が分析される。では、と、ここまでかなり読みやすかった本書だが、「人間の本質」について語る第6章からちょっと難しくなる。そして、ここで語られていることは、最初に書いたように、フロムがいまもなお実際的であり、リアリティをもって読まれていることの回答のようにもおもわれる。人間は善か悪か、というような根源的な問いを立てる前に、そもそもの人間とはなにか、その本質はなにか、というような問いを立てることは無意味ではない。だが、「本質」とは、要するにずっと変わらないもの、あなたについてもわたしについてもいえるもの、ということだが、もしそれが実体、つまり言葉にしてあらわすことのできるような、輪郭のはっきりしたものだとしたら、ひとは記録されている時代から少しも進化していないことになる。では進化しているのだとするなら、「本質」として語られるものは残っているのかと。フロムはここでいう本質を「人間という存在に内在する矛盾(161頁)」と定義することでこのジレンマを解消しようとする。それは、自然に囚われた生物としての面と、それを超越する文明人としての面の矛盾である。たんに、ふたつの交わらない衝動のあいだに葛藤している、というばかりではない。人間は「解決を強く求めている(162頁)」。絶えずぶつかりあい、それでいてそれをなんとかしようとする衝動、そこに「本質」があるとするのである。

 

 

 

「人間はどんな段階に到達しても新しい矛盾が現れるので、新しい解決策を見つけるという課題に取り組み続ける。この過程が、完全な人間になり世界と全面的に一体化するという最終目標を果たすときまで続く。

(略)

大切なのは、ヒューマニズム宗教は哲学的な教えであり、「新たな目標」は同じもので、人間はそこにどんどん近づいて到達できるという信念によって生きているということだ」167頁

 

 

 

この「信念」ということがポイントだが、フロムは、この潜在的本質的矛盾を解消しようとする動作そのものが人間の営みであると考え、だとするなら、わたしたちがとるべき行動は「前進」か「退行」しかないと考える。退行というのが、「衰退のシンドローム」が目標とするものである。アベンジャーズをご覧になったかたは、サノスのことを思い浮かべるとよいだろう。サノスはアベンジャーズの宇宙に散らばる6つの魔法の石を集めるものである。石は宇宙創成の鍵を握る特殊なもので、ぜんぶ集めるとなんでもできるようになる。サノスは、指をひとつ鳴らすだけで、全宇宙の全生物を半分にしてしまおうとたくらむものだ。なぜかというと、そこには増えすぎた人間と有限な資源というようなサノスなりの動機があるのだが、そのあたりはここではとりあえずおいておこう。ツイートにも書いたように、「インフィニティ・ウォー」と「エンドゲーム」ではサノスの性格、あるいは描きかたが少しちがう。自らの手による故郷の破壊や、信頼する部下の死、そして彼が育ての親である愛するガモーラの死などを経てガントレットを完成させたサノスは、まだどこか慈悲のこころのようなものが感じられた。「インフィニティ・ウォー」で6つの石を集め、ついに指を鳴らしたサノスは、いっしゅん夢をみる。そしてそのなかで、幼いガモーラに語りかけられるときの彼は、ひどく疲れているのだ。なんというのか、人間味があるのである。このときの彼はまだせいぜい「ネクロフィラスなひと」くらいで済みそうな感じだ。ところが、「エンドゲーム」ではそうした描写はない。というのは、彼は過去からやってきたのだが、部下とかガモーラの死をぜんぜん経験しないまま、いきなり石が6つそろった状態のガントレットを手に入れているのである。そうして、ただ「抵抗がある」という事実だけを知る。そこで彼は、「人類を半分」なんていうなまやさしいことではダメだと考える。全宇宙を粉々に破壊する、そして再び創造すると、こういうふうに言い出すのである。これが「衰退のシンドローム」の最終目標である。粉々になった宇宙にはもはや矛盾もなにもないのである。

では、前進の、「成長のシンドローム」が目指すべきものはなにか。そのイメージは、すべての宗教が示してくれるだろう。重要なことはそこに志向する信念だ。スピノザ、マルクス、フロイトを決定論者(自然の法則などによって、ある原因から結果が必然的に定まっているとするもの)としつつ、それであるがゆえ、彼らはそこへの自覚を促し、「解決」を求めたものだとフロムは書く。階級は人間社会に必然的にあらわれるものかもしれないが、闘争することはできるし、人間は必然的に病むものなのかもしれない、回復しようとすることはできるのである。

 

じっさい読みやすいということもあり、なにか自己啓発的なイメージもあって長いあいだ手が出なかったひとだが、とても大きなものを得ることができた。『自由からの逃走』だけでなく、最近新版が出た『愛するということ』もすでに手に入れてあるので、ゆっくり読み解いていく。

 

 

 

 

 

 

 

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