■『ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた』一橋大学社会学部佐藤文香ゼミ生一同 明石書店
「ともに考えていくために…大学生の視点からのジェンダー「超」入門!ジェンダーを勉強したら、イクメンにならないといけないんでしょ?日本はLGBTに寛容な国だよね?フェミニズムって危険な思想なんでしょ?なんでジェンダーのゼミにいるのに化粧してるの?性暴力って被害にあう側にも落ち度があるんじゃない?―「ジェンダー研究のゼミに所属している」学生たちが、そのことゆえに友人・知人から投げかけられたさまざまな「問い」に悩みながら、それらに真っ正面から向き合った、真摯で誠実なQ&A集」Amazon内容紹介より
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本書は、一橋大学社会学部の佐藤文香ゼミの課外活動ということになっている。というのは、タイトルにもあるとおり、執筆者はゼミ在籍の大学生なのだ。彼らは、佐藤ゼミでジェンダーについて学んでいるが、それゆえ、家族・友人などからいろいろな問いを投げかけられる。純粋にわからないこととして投げかけられるだけならよいが、なかには、ジェンダー論やフェミニズムを学ぼうとするくらいの人間からすれば前提すぎて、即座にこたえることが難しい問いもあったようである。そこで、うまく説明できなかった経験を彼らはすることになる。おそらく、それまでのゼミ生もそうだったはずだ。というところで、それならそうした問いを集めて、まとめて引き継いだらどうか、ということになって作られたのが本書ということだ。つまり、そうした素朴な問いに対応する本ということになるから、基本的には入門書といっていいだろう。だが、こうした入門書は、いくら読んでも読みすぎということにはならない。いまげんに生きて機能している常識や慣例、言語といった、行動が発生する以前の時点の条件について再考するのがこうした学問のミッションである。主知主義的に制御できない、行動がもたらしている効果について考えていくのだから、ある段階を越えたところに立ちさえすれば、もうそのひとは女性差別をすることはない、というようなことはないわけである。ただ、そこには目覚めというか、悟りのような感触があるだけだ。そこから、じしんのふるまいに懐疑的になりつつ、少しずつその意味を開いていく。それが、当事者の基本的な態度となる。入門的な状況をくりかえし学んで身体に馴染ませていくことは、たとえそれがあたまでは自明におもわれることであっても、必要なことだ。
文章に関しては修士や博士の学部の先輩も見てくれたということで、問題ないというか、えらそうに評価するのもナニだが、はっきりいって非常によくできている。ぼくにはこんな丁寧な仕事できないもの・・・。それどころか、男女問わず複数の書き手が様々なテーマについて論じている(というより、厳密にはたしかに「説明」している)のだが、おそろしくニュートラルな体温の文体になっており、見事な一冊というほかない。
形式としては、まずその「問い」がある。この問いも、ゼミという集団知の強みというか、なかなかかゆいところに手が届くものになっている。男女平等に社会参画をという文脈で「でも専業主婦になりたい人もいるよね?(Q05)」とか、「どうしてフェミニストはCMみたいな些細なことに噛みつくの?(Q15)」とか「どうして(フェミニストは萌えキャラを目の敵にするの?Q16)」とか、誤解込みで立ち上がりがちな、しかし応えようとするとわりと面倒な問題にも簡潔に、あくまで現時点の仮説であり、問題意識を持つことがまず肝心であるというスタンスを崩さず、読みやすい分量で応えていくのだ。回答は「ホップ」「ステップ」「ジャンプ」の3段階にわかれており、それぞれの興味や関心、取り組みのレベルに応じたものになっている。3段階のこたえをあわせてせいぜい6ページというところ、これが29個ある、という感じだ。気になるところから、また読みやすいレベルまで、好きなように読んでいくことができる。
本書はQ&Aの構成になっているが、その動機は、発生しがちな問いに関して、もうあらかじめ準備しておこうよ、というものだったわけである。むろん、ぼくのような初学者はこれを最初から最後まで読んで入門書として役立てることができるわけだが、それと同時に、本書は実用書的な側面、必要なときに取り出して読むというような面もあるわけだ。じっさい、たぶん、フェミニズムが内面化されないうちは(そしておそらく「内面化された」という確信に至る事態は、フェミニズムに真剣であればあるほど、訪れにくいだろう)、本書は良質に導き手になってくれるはずだ。ここでふと思い出したのが、同様にして実用書的な、「マニュアル本」の面を強く打ち出していた、イ・ミンギョンによる『私たちにはことばが必要だ』である。
こういうふうに、フェミニズムがじっさいに行使されたときに生じるであろう衝突を、わたしたちはけっこうすすんで想定するのである。それはなぜだろうかと考えたところで、問題の根深さもうっすら見えてくる。たとえば物理法則というものは、厳密にいえばその実験がおこなわれる場所の定義が必要となるが、一般的な会話のレベルでその状況は地上が想定されるので、個別の状況設定というものはそれほど重要ではないだろう。「立って前方に突き出した手からボールを落とすと下に落ちる」という記述は、「そこは地球なんですか?!」というようなクソリプを除けば、それ以上の説明を必要としないだろう。そして、多少の差はあれ、本書のどこかで上野千鶴子が似たようなことをいっていたような気がするが、フェミニズムを含まないすべての学問は、ここでいう「実験は地球上で行われている」というような条件を、無意識に含んでいる。それを背景に、疑いのないものとして、思考を開始しているのである。フェミニズムはここに挑戦していくのだ。とすると、そうした言説は、いまのたとえでいうと「クソリプ」ということになるかもしれない。しかし、それは、それを「クソリプ」と呼ばないひとにとっては必然的なことであり、この意味では「クソリプ」とは一般化できないものとなる。じっさい、前景化することの難しい、思考法レベルにまで染み付いた慣行について反省的になろうとする学問なのだ。横断的、かつ個別の状況に応じて、ひとつひとつ問題をつぶしていくようなゲリラ的なやりかたしか、現状はないのかもしれない。それが、ときにフェミニズムが、特に学問として学ぶのではなく、生きる術として活用されるときに、実用書的なおもむきを見せる理由かとおもわれる。「地上」のような、疑いのない前提条件というものが、ここにはない。だが、「地上」以外の条件があるということは明らかであり、まずはそのことを周知することが、ここでいう問題意識の共有や、議論の開始ということなのだ。
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