第6話/ハロウィン(後編)
仕事面では藤原がミシェル・リーという超大物を怒らせ、南波はゴールドジェンヌという新興ブランドを紹介しようとして三岳や三ノ輪の不興を買い、激動のところ、ナンパ師たちのハーベストであるハロウィンイベントがやってきたのであった。
ハロウィンの渋谷は非日常の雰囲気に満ちており、いかにも声をかけやすそうではあるが、ガチめにつくりこんでる女の子は本気でイベントやコスプレを楽しんでいるから無駄だと藤原はいう。ナンパされにきているわけではないのだ。
また、コスプレということで、導入にコスプレいじりを使えるわけだが、それはみんなやるので、女の子のほうでもたくさんラインを交換するから、死番になるという。無駄にしないためにはすぐ写真を送って印象づけることだ。
「ちゃんこ」と「物言い」はSWATのコスプレで、可愛い子を「逮捕」している。特に藤原のコメントはないが、女の子側のコスプレではなくじぶんたちのコスプレを導入につかっているので、印象に残りやすいとか、そんなこともあるかもしれない。ふたりは「エドビー」に宿をとっておいたという。調べたがなんのことかわからない。ともかく、予約しやすい民泊みたいなものだという。4人はそこへ向かう。見たところふつうのマンションだ。なかではジョーカーのコスプレをした「ねこだまし」がパンパンやっている。女の子は警察のコスプレをしていて、ジョーカーは犯罪者なので、ナンパの「物語」を構築するうえではうってつけである。
部屋は交替で使うもののようだ。ふざけてわざと藤原たちが入ってきたから、女の子は逃げてしまう。ここを使って一晩で何回ヤレるか競うのだ。
以前とはちがい、南波もさくさく声がけをしていく。が、先輩連中は比較にならない。南波は、友達とはぐれ、終電も逃してヤケになっているバニーの女の子をようやくつかまえる。というわけで部屋に向かうが、なかには全員いて乱交状態になっている。バニーちゃんの友達もなかで無事ズンズンされているのが見つかった。
酒もまわり、倫理観や理性が次第に崩れていく。汗なのかなんなのか、ジョーカーのメイクがどろどろ剥げてきているねこだましのイメージと、床にこぼれた酒の描写が、現場のしめりけを伝えてくる。粘膜の未練がましい接触、混ざり合う液体、境目の失われる挿入や銜みが、彼らをひとつの生物のように溶かしていく。南波がこの生き物を、たしかに「気持ち悪い」といっていることは見逃せない。
女たちが眠ってしまったあと、藤原と南波が廊下で水を飲んでいる。こんな乱交は南波には初めての経験だったろう。なにかうつろな表情をしているのを、藤原は気付いているようである。まず顔をのぞきこみ、仕事のはなしをふる。順調である。だが、すぐ南波は黙ってしまう。それをまた藤原がのぞきこむ。そして、付け加える。「女なんて全部同じようなもんだ」と。そのことばは南波のなかでおもいもかけない響きかたをしたようである。
さて、ミシェル・リーのレトロから返事がきたようだ。編集長が藤原、南波、三岳、三ノ輪を呼び出す。あれだけ怒らせたのだから、うまくいきっこない。彼らの失敗を願う三岳や三ノ輪は笑っている。が、企画はこのまますすむことになった。三岳はまだ言い足りない。ゴールドジェンヌは批判的な意見が多すぎると。ストリート系のブランドでは「サンプリング」という思考法が一般的であり、これは音楽でも同じことだが、既存のものに手を加え、政治性を剥ぎ、また新たにまとって、新しい価値観をつくっていくが、ゴールドジェンヌも同様の方法をとっている。いや、ササミーの感じをみるかぎりでは、そんな思想があるというよりは、そういう方法もまったくいとわない柔軟さがある、というふうにいったほうがいいだろうか。
南波も来ているゴールドジェンヌの標語である「want to be」は、「憧れのスターになりたい」という意味がこめられているという。南波の説明はちょっとわかりにくいが、いまの若者は中途半端な金額の服への興味は失っているが、ハイブランドへの関心は高いと。ハイブランド的な要素をサンプリング的に取り込みつつそんなに高くない、みたいなところがゴールドジェンヌのだということだろうか。
レトロとコラボした箸袋つきPUPUは3日で完売したそうだ。後日、南波は勝算はあったのかと藤原に訊ねる。あのとき藤原は、根回しはしていたものの、案外あっさり引き下がっており、ぼくは前回そこに即興性をみたが、もう少し具体的な作戦があったようである。ミシェル・リーは、貧困層の出身だそうだ。そのときの苦労を彼女は忘れたことがないということを藤原は記事で読んだ。今後、大量生産の服はロボットによってつくられることになり、途上国の労働は失われる。だから、あえて箸袋をあえて手縫いにし、労働が発生する提案をしたのだという。前回のあの怒られた場面では、モノを大切に云々というはなしはしていたが、労働力とか手縫いのはなしはしていなかった。つまり、あのあとにしたということだろう。藤原は前もってルガーフェラルドと仲良くなっておき、ミシェル・リーと間接的な関係性を築いていた。そのうえで、とりあえずはなしだけでも聞いてみようとなったところで、そういう「物語」をもちかけたのかもしれない。
南波のゴールドジェンヌのページも反響が大きいそうだ。南波は、あのハロウィンで知り合ったインスタグラマーを動員してしっかり宣伝をさせていた。当初は元ネタのビトンをバカにしている、という批判もあったが、なんと公式がそれをおもしろがってくれて、一気に空気が変わったのである。ササミーは大喜びで南波にキスをし、三ノ輪の評価もひっくり返った。大成功というわけだ。
ナンパ塾に入って南波の人生は変わった。街一番の美女にも平気で声をかけることができるようになった。そこではなにが行われているか? 好むと好まざるとにかかわらず、女たちは「カワイさ」で評価されてきた。そんなことはまちがっている、と良識派はいうが、その反対側に彼女たちがほしがっているものがあるという。それを察し、ナンパ師は提供する。
「ナンパ師の世界で必要なのは真実じゃない
真実に見える虚構の演出力だ」
もはや南波は、うまく美女をつかまえている男をうらやましがる路傍の非モテではなく、うらやましがられる側である。だが、どこか物足りない。そこで彼のあたまに浮かぶのは佐野である。南波は、無意識に佐野にラインをするのだった。
つづく。
ナンパの方法論と実践が中心で、それが意味するところはいままであまり描かれてこなかったが、ここにきて一気に踏み込んだ感じがある。
今回の鍵概念はいうまでもなく「虚構」である。「物語」といってもいい。女たちが信じたがる「物語」、これを適宜提供するのがナンパ師なのだ。
このことは今回と前回が「ハロウィン」ということで前編後編にわかれていることからも明らかである。というのは、ハロウィンで行われるコスプレという行為が、一種の物語の兆しだからである。いま、わたしたちが暮らしているこの世界とまったく異なった度量衡で成立する、たとえば火星とかを想定すれば、そこでは「地球人」というコスプレが可能である。なぜなら、わたしたちが当たり前にふるまい、備える数々の事物が、火星ではものめずらしいものであり、もれなくなんらかの表象になるからだ。衣服の構造だけをとっても、そこには歴史がある。スーツの袖にはボタンがついており、これは特に意味のないものに見えるが、これは、ロシア遠征をおこなったナポレオン軍の兵隊が、寒さでたれてくる鼻水を袖でぬぐうのを防ぐために実行したデザインということだ。こうした、作品でいえば「設定」が、人物の衣装やメイクをする際には、必ず兆してくる。ジョーカーの化粧をすれば、そのつもりがなくても、「犯罪者」や「バットマン」や「DC」といった単語が含まれてくるのだし、それだからこそ、警察のコスプレをしていた女の子とのやりとりも成立するのである。
そのようにして、ハロウィンのコスプレイベントでは、異世界の兆しが持ち込まれることになる。たんに黄色と赤をふくんだ丸いラインのきぐるみを着ればプーさんになる、ということではないのだ。コスプレイヤーたちは、現実世界に異世界の先端を差し込むのである。だから、その背後には別の物語が広がっている。ジョーカーの背後にはバットマンが、ハーレイクインが、ということはスーパーマンやワンダーウーマンが、立っているのだ。
こういうことを志向するのがハロウィンというイベントだ。そこにない物語を持ち込むことが奨励される、年にいちどの日なのだ。この日がナンパ師にとって収穫祭となるのも、いかにも自然なことだ。ナンパ師は、相手が求めている物語を提供する。ジョーカーのメイクのしたがどういう人物かなんてここではどうでもいい。重要なことはじぶんが警察であり相手がジョーカーであるという符合のほうだ。
そうして、ナンパ師とナンパされるものは、物語の登場人物になる。ナンパ師からすれば、藤原はともかくとして、とにかく挿入することが第一であるようなものにかんしていえば、女の子たちがそのつもりでいるかどうかということも、重要ではない。今回南波とやっている女の子が「つきあってくれるなら・・・」というようなことをいっているが、あれを彼女がどこまで本気でいっているかは、ナンパ師には重要ではない。しかし女の子にとってはどうだろう。ここに、南波が感じているであろう違和感の正体がある。女は謎だが、謎のままでいい、という藤原には、ある種の達観が感じられたが、同時にそれは、彼女たちの固有の人格を無視した蔑視も含まれていたのだ。
藤原はレトロとの企画を成功させたが、これも「物語」の提示によって行われたものだ。それは、労働を失いつつある貧困層にそれを与える、というものである。それはミシェルの出自でもあり、彼女の行動の起点でもあった。藤原はそれを正しく読み取った。ミシェルが読みたがっている物語を正確に汲み取り、かたちにして提出したのである。ミシェルを口説き落とした仕事上の方法も、ナンパと同一なのである。
今回藤原は「女なんて全部同じようなもんだ」という、なんというのか、いかにもナンパ師がいいそうだけどそれはいってはいけないだろ、というひとことをくちにしていた。ここには複雑な意味がこめられている。少なくとも藤原は、南波を啓蒙するつもりで、複雑に意味をこめている。まずひとつには、浮かない顔をしている南波に対して、である。うつろな乱交を終えた南波は、なにか腑に落ちないような顔をしている。藤原はその感じがわからないでもないのだろう。だが、彼は達観している。こういうものなのだと。今後展開しだいでは南波が求めるかもしれない「真実」なんていうものはここにはない。そういう、教化の意識だ。そしてもうひとつ、ここにはミシェル・リーのことも含まれている。直前、彼らは仕事の話をしており、藤原は「打てる手はすべて打った」としている。そして、げんに彼はこれを成功させた。同じような「虚構」の提示によってである。ナンパと同じ手法で彼はミシェルを落としているのだ。こういう意味で、藤原にとっては「女なんて同じもの」なのである。そして、納得できない様子の南波に、それを教えているのである。
だが、そうして藤原が、彼の考える女性像というか、ナンパ観を明確にくちにしたことで、むしろ南波は佐野を思い浮かべることとなった。いうまでもなく、南波にとって佐野は「同じようなもの」のなかに含まれるものではない。彼は、佐野に固有のものを見出しているからこそ、これに憧れる。そのひとでなければその意味を満たすことはできない、恋愛でなくても、「憧れる」とか、「ひとを好きになる」とかいうことは、そういう交換不可能性のことなのである。
女たちがどうおもっているかはともかくとして、現実問題藤原は、「虚構」をうまくコントロールすることで、ナンパも仕事も成功させている。それを常時活用させていくためには、「女なんてみんな同じ」を受け容れる必要がある。「この女は虚構を受け容れないかもしれない」という可能性を考慮したままでは、ミシェルにしたような大胆な戦略はとれないし、「この子とあの子では価値観が異なるかもしれない」とかいうことをいちいち考え出したら、あの乱交後のうつろさにも耐えられないだろう。しかしそれは、南波からすれば、佐野への感情を否定することにほかならない。佐野を特別視しているとか、佐野だけはそういうものに含まれないとか、そういうことではない。南波じしんの感情の行き場の問題なのだ。それに納得してしまうということは、そもそもの、彼がナンパ師への初期衝動の位置にあった、佐野への感情が、にせものだったということなのである。南波は、それを確認しなくてはならない。だから、無意識に彼女にラインをするのである。
今回のあの、乱交現場における融けあいの描写はおもしろかった。性交がいっしゅの融けあいである、みたいなことはバタイユもいっていた。同じ血が流れているように感じる、恋愛の感覚の、肉体的な確認作業とでもいえばいいだろうか。だが、今回のあれはそういうのともまた異なっている。もっと原始的で、交換可能なものだ。彼らは虚構の物語の登場人物として、現実世界の表面をすべるようにして、あの部屋に入った。だが、肉体は現実のものとしてついてくる。残された現実の魂を、ねこだましたちがそうしているように、完全に忘却することができれば、それもいいだろう。しかしそうでなければ、それは、幽体離脱でもするかのように、現場を鳥瞰するはずである。そこには、もはや虚構のもとの姿などない。ジョーカーのメイクもどろどろ溶け出し、現実に差し込まれた異世界の物語は、別の物語と混ざり合い、意味を失う。残るのは魂を欠いた肉体である。魂のぬけた肉体であるから、それはもう誰のものでもないし、誰のものでもいい。藤原はもっとドライに事態をとらえているのかもしれないが、いやドライにとらえているからこそ、魂の抜けた肉体の並びを「同じ」といえるのだろうが、心底からは納得のいっていない南波は、これを客観してしまう。それが、あの部屋のなかにいるものたちをひとつの生き物のようにとらえるのである。
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