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3000文字チャレンジ、お題は「せんたく」です。というか4000文字超えちゃいましたけど・・・。
以下本文
今日は、ぼくがこれまでの人生でどれだけ「選択」をしてこなかったか、というはなしをしよう。
はなしの枕に、サンデル教授が有名にしたあの「トロッコ問題」について書く。ブレーキの故障した電車が暴走している。線路はふたつに分かれており、あなたは運転をしているか、もしくは転轍機をいじることのできる状況にある。行く手にはこちらに気付いていない5名の作業員。行く先をかえればこれを救うことはできるが、逆側の線路上には別の1人の作業員が同様にしてこちらに気がつかずにいる。あなたはどうすべきなのか、という道徳の問題だ。逆側の1人が大切なひとだったり、気がついてはいるが各自身動きがとれない状況であったり、いろいろとちがうパターンのものも見たことはあるが、要するに「誰かを助けるために別の誰かを見捨てる、あるいは殺すことは許されるのか」という問いである。
これに関してかつて内田樹は、そもそも主題化されるべきなのはそうした選択をしなければならない状況に陥ってしまったことではないか、というような意味のことをいっていた。調べてみたが出典がどこかわからず、記憶違いもあるかもしれないが、要するに、そのように「どちらを選んでもひどいことになる」という状況じたいがすでに誤ったものであり、許される/許されないというはなしでいうならば、「選択をしなければならない」となってしまった時点で、既に許されないのである(と、ここまでいっていたかどうかはわからないが)。それは、誤りの内側で、同様に誤りであるふたつの選択を比較する、ということなのである。
「選択」をするということは、道徳律であれ損得勘定であれ、なんらかのものさしを用いて「どちらがマシか」を決定しなければならないということである。トロッコ問題に関しては、ここに道徳のものさしをあてがい、「どちらがマシか」を決定するが、果たしてその決定、また手にしているものさしは、どんな規矩に基づいて設計され、またどういう動機でそれが信じるに足るものであると決められているのか、ということが問題になる。つまり、トロッコ問題の本質は、そうした極端な思考実験をすることで、道徳の縁取り、カバーしている範囲の限界のところを見極めてみようとするものなわけである。しかし、「選択」することじたいが一種の誤りであるとするのであれば、たしかにあまり意味のないことともおもえる。いわゆる「人生の選択」というようなことの重みとは、関係がないのだ。ジェイソンとレザーフェイスが生息している森があるとして、わたしたちは、まずそこに近づかないようにするだろう。それであるところに、「ジェイソンに殺されるのとレザーフェイスに殺されるのとどっちがマシか」という問いを立てても、無効とはいわないが(生のいち場面でうっかり森に迷いこんでしまうことというのはあるので、実用的な考察という意味では決して無意味ではない)、「森にいかないようにすればいいのでは」となってしまうのはしかたのないことである。
変数に満ちた人生は選択の連続であるはずだ。トロッコ問題のような、「どちらがマシか」を比較する場合はまだいいとして、比較不可能なものを比べなければならない場面も人生の細かな状況には無数に訪れる。親友か彼女か、とか、先に風呂に入るかごはんを食べるか、とか、お金にならない書きものを続けるかその時間を多少ロスしてでもブラック企業の正社員になるか、とか、いろいろである。そうしたとき、わたしたちは問題の次数をひとつくりあげて、第3のものさしを用意することになる。いますぐお風呂に入ることといますぐごはんを食べることは、汗だくで腹ペコの帰宅後ではどちらも優先度が高く、なおかつ、価値を比較することができない。そこで、たとえば「効率」というようなものさしを新たに持ち出すのである。もっといえば「時間」である。お風呂沸かしてるあいだにお弁当食べてしまおうとか、シャワー浴びているあいだに同居人に頼んでレンジにかけてもらおうとか、そういうことだ。しかしそれができないときもある。第3のものさしは、いちおうそのことによって自分自身や、選択の影響下にある他人が納得できるようなものでなければならず、またそうであればそれがどんなものさしであってもかまわないのだが、たとえば「家族」や「国民」など、選択の影響下にあるものが複数で、かつ価値観が一定でない場合である。こうしたときに行われる選択には、責任が宿ることになる。未読なのでネット情報だが、どうやらサンデル教授の議論はそのようなところに落ち着いているようだ。映画『マトリックス』でも「選択」は重要な概念になっていたが、あの作品でも、いっしゅの有責性が使命感と、また強さを引き出すことになっていた。現実の選択はトロッコ問題ほど極端なわかりやすさではなく、それがどういう結果をもたらすのか予測できないことがほとんどである。そのうえで、予測できない人生の道程において、ひとは自然と責任について学んでいくことになる。
ところが、ぼくでは、大きな人生の選択をしたという記憶が、どうしても出てこない。社会経験に乏しいぼくでも、ひとなみに学校にいって、仕事もしてきたわけだけど、なにかを選び取って、その責任を負う、というようなことをした記憶が、ぜんぜんないのである。だから本質的にとっちゃんぼうやなんだよ・・・といわれたらまったく反論できないが、どうもぼくでは、「選択しないことを選び取っている」みたいなフシがあるのである。
どういうことかというと、たとえばぼくは学生時代ビジネスホテルでアルバイトをしていたが、これは先輩や友人の紹介である。大きなホテルだったし、人生最初の「仕事」らしい仕事だったが、面接とかもした記憶がない。
また書店だが、これは大部分知人の顔があった。それ以前までぼくは、ホテルとコンビニ夜勤を掛け持ちしていたのだが、大学を中退してしまうのとほぼ同時くらいにホテルの仕事がなくなり、コンビニ夜勤一本でやっていた。やがてこの店も閉店となる。多少貯金もあったし、2、3ヶ月くらいは小説を書いたり図書館に通ったりして自由にやっていたが、そうもいかなくなり、そろそろ仕事探すか、というタイミングで、閉店したコンビニの隣にあった書店でアルバイト募集をしていることを知ったのである。いまとなってはなぜだかわからないが、当時のぼくにはじぶんが書店員になるという状況がうまく思い描けず、候補にもなっていなかったとおもうが、ともかく募集されていた。で、その書店の土地というのが、そのコンビニのオーナーと同じものなのである。つまり、かつて働いていた店のオーナーと、その書店のオーナーが、同一人物だったのだ。灯台もと暗しというところか、ともかくぼくはバイト募集しつつ、オーナーにもそれとなく応募した事実を知らせ、あくまでそれとなくくちをきいてもらったわけである。
その書店が閉店する2年前まで、10年働き、やがて再び無職となったのは最近の読者のかたであればご存知のことかとおもう。しばらく有料記事など書いて過ごしていたが、10年前と同じく、やはりどうにもこうにもならなくなり、「探すか・・・」という時期がやってきた。そのとき、前のその閉店した書店で出会い、付き合い続けている相方は、すでに新しい書店に再就職していた。ところが、はなしをきくだけで伝わってくる圧倒的不当労働である。ハラスメントも嵐のように襲いかかる。前の書店もひどい重労働ではあるにはあったが、なにしろ管理職のいない店で、ぼくや相方、超ベテランのパートさんにバイトちゃんたちだけでまわしている店だったから、大変ではあったが自由だった。売上も閉店が決まるまではそんなに悪くなかったし、郊外店で条件もよくないということで、本部もたいがいのことは大目に見てくれた。年間通して連休がないなどの困難はあったが、やりがいはじゅうぶんだったのである。ところが、新しい書店にはそれがいっさいない。やっているひとたちに商品知識がないというのも致命的だった。そういうところで、専門書エリアにひとが足りないという事態に陥った。そのままいくと、ただでさえ不当に酷使されている相方が、なんの教育も研修もないまま、さらにそこもやらされるであろうというところだったのである。相方の評価として、「たぶんあのフロアには(ぼくは)向いている」ということもあった。そうして、なかばぶっ壊すつもりで、相方にくちをきいてもらい、入社したのである。といっても、こういう会社は外部の人間、特に経験者には非常に過敏になるので、「なにを考えているのかわからない」という評価のもと、ぼくはほとんど面接で落とされそうにもなった。おもうに、いちおう柔和な態度ではいたはずだが、そういう反感みたいなのが反転して不気味さにつながっていたのかもしれない。いまとなってはぶっ壊すどころかぼくらがぶっ壊されそうな状況だが・・・。
さて、つい熱くなってしまったが、はなしの主旨は「選択」である。見てのとおりぼくは、ほとんどぜんぶの仕事をコネで手に入れているのだ。それで大もうけをしているとかではないので、反感をもたれることもないだろうが、ふつうは厭われる生き方だろう。ぼくとしても別にそれを誇りにおもっているということではないし、ちょっとズルイよな・・・という気持ちも正直いってある。しかしぼくには同時に、コネもまた長い得物の先端のようなものだろうという認識もある。先輩とうまくやっていたり、オーナーの家にちょくちょく遊びにいって飲んでいたり、相方を守ろうという意識があったり、そういう連続のあとに自然に仕事がやってきている感覚なのである。ま、これはこれで、選択の責任を回避しているとっちゃんぼうやの言い訳にすぎないといえばそうなのだが・・・。げんに、ぼくには、「「選択」をしなくてよい状況を選択している」という感覚と、「「選択」がもたらす責任から逃げている」という感覚が並存している。たぶん、これじゃだめなんだろう。というのは、長い得物もやがては減ってくるからである。リスクヘッジ的な視点でいえば、とても危ういのだ。自立し、みずからの選択の責任を負う先でしか、ひとはオトナになれないのだろう。といいつつ、分岐点などなく、日常が連続する先に人生は続いていくもんじゃないのかな、というような甘い直観も残るのだが。
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