「中毒性が高い」(3000文字チャレンジ「中毒」) | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

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3000文字チャレンジです。今回のお題は「中毒」。ふつうにただの随筆なので、みんな読んでね。

 

 

以下本文。

 

 

 

いつのころからか「中毒性が高い」という評言を好んで用いている。

元ネタはなんなのか、ちょっと前までははっきりしていたような気がするのだが、少なくともいまは思い出せない。ことばの感じからして、たぶん後藤雅洋などの音楽批評ではないかとおもわれる。後藤雅洋はジャズ喫茶「いーぐる」のマスターであると同時に、初心者向けジャズ入門書をたくさん書かれているかたで、小学生のころのぼくはこのひとの本からずいぶんいろいろなことを教わった。その瞬間、いちどきりの即興演奏というジャズの演奏スタイルがぼくのものの書きかたに影響を与えていることは疑いない。ぼくは、書く前になにを書くか決めないし、書きながら考えていく。といっても完全に、キース・ジャレットがそうであるように、虚空からつかみとっていくわけではなく、今回のものに限らず「お題」はあるわけだが、それでも一回的な書きかたといっていいとおもう。そして、それでなければ得られないスピード感・ドライブ感が宿っているものと信じている(推敲をしない言い訳になっている可能性も否定しないが)

小学生のぼくは、島田荘司の影響で、かっこつけてモダンジャズなど聴いていたわけだが、じっさいにはよくわかっていなかった。厳密には、わかるもの、好きなものもあれば、なにが演奏されているのだかさっぱりわからない、というものもあったのだ。そういうところで、後藤氏の批評を問屋に脳内で受け売りすることによって、聴きかたを身につけていったのである。後藤氏はチャーリー・パーカーを集中的に聴いていたある時期に、電流が走るようにして即興演奏が「なに」であるかを理解した、というような経験をされているが、ぼくはこのことを追体験的に物語として捏造することで、ビル・エヴァンスのアドリブパートがない「マイ・フーリッシュ・ハート」やソニー・ロリンズのライブにおいて同様の「即興演奏が『なに』であるのか」を理解する経験を獲得したのである。

 

はなしがずれてきているが、「中毒性が高い」は、たぶん同じような感じで、後藤氏がつかっていた表現・評言なのではないかと推測する。ジャッキー・マクリーンのような、ちょっとB級気味の奏者についてそのように付すのである。

 

もうひとつ、特定の誰かの、ということではないが、ヒップホップのビートにかんしては、日常的に使われているといえばそうかもしれない。ごく原初的なスタイルでは、ビート、あるいはトラックというものは、決まったパターンのくりかえしによって構成されている。これは2枚使いといって、既存のレコードを2枚用意して、同じぶぶんをくりかえしかけるのである。くりかえしなので、ビートには起伏が加えられることがない。じっさいにはそれがトラックメイキングというもので、ただたんに気に入ったところをつなげているだけというようなトラックは存在せず、複雑な工夫が施されているが、原理的にはそうだといっていいだろう。ではひとはどうやってビートのよしあしを決めるのか、つまり「優れたビート」とはなんなのかというと、中毒性なのである。ずっとそのぶぶんを聴いていきたいと感じさせる、あるいは、そのことによってなにか別のものが生まれ出てくるかのような高揚感がもたらされる、こういうものが「いいビート」なわけである。

 

ともあれ、こうした経験を通して、ぼくはおそらく「中毒性が高い」という形容文句を獲得したのである。そして、しかも、ぼくはそれをかなり多用する。どういうときにつかうのかというと、ジャズ批評において使われるのと同様に、ある種の権威性から距離をとって、その対象への好意や称賛を示すときである。

 

「中毒性」という語が指示するのは、もちろん、反復衝動である。音楽なら、何回でも聴いていたい、ずっと聴いていたいと感じられるということであり、小説などの言葉遣いにかんしていえば(たとえばぼくでは武者小路実篤などがそうである)、その作品を離れても無関係に、その作者の書きかたをずっと浴びていたいと感じるということである。さらに、場合にもよるが、たいがいそうした作品や人物は「回帰」も要請する。だいぶ長いこと武者小路実篤を読んでいないと、ときどきむしょうにそれが読みたくなってしまって、夜中の3時に本の山をかきわけることになるのである。

こういうわけであるから、じっさいには「中毒性が高い」は、別の称賛のことばの代用ではなく、それでなければ指示できないなにものかを形容するときに用いられる。正道のほめかたはちょっと難しいけど、個人的には好きだなあ、くらいのものを誉めるときにぼくはこの表現を使いがちなのだとおもっていたのだが、そうでない可能性も出てきたわけである。つまり、ぼくのなかでは、反復されるものが善なのである。

もちろん、「中毒性が高い」が批評の前面にこないものであっても、じっさいには「中毒性が高い」作品というのはいくらでもあるだろう。たとえば多和田葉子の小説は、ぼくはあまり再読はしないけど、唯一無二のものだとおもうし、『飛魂』は日本最高の小説のひとつだと考えている。そういうことはある。だがそれとは別に、ぼくのなかでは、「中毒性が高い」、つまり“やめられない”ようなものを善とする感覚が、作品鑑賞にあたっても強くあるのである。そして、考えてみるとぼくはずっとそうだったのだ。ぼくはずっと、本を読むにしても音楽を聴くにしても映画を観るにしても、幅広く鑑賞するというタイプではなかった。好きなものにくりかえし毎日浸かることを最上の快楽とする人間だったのである。

 

ではそれはぼくの本質であり、その本質が後藤氏などの文章から「中毒性が高い」という文句を拾い上げたのかというと、それもちがう気がする。これにかんしてもやはり、ある種の捏造の気配が兆している。最初に書いたとおりに、ぼくは即興演奏のなんたるかを獲得した物語さえ、後藤氏の経験を通して身につけている。ビル・エヴァンスのあの有名な「マイ・フーリッシュ・ハート」はアドリブパートのない演奏である。しかし、ぼくは長いあいだそのことに気づかなかった。ごくかんたんにいうと、ジャズの演奏形態は、みんなで「テーマ」と呼ばれる、作曲されたパートを演奏し、そののちにテーマの伴奏ぶぶんだけを残して、交替に即興演奏をしていく。だから、ふつうに考えると「アドリブ」がないジャズの演奏なんて考えられない。しかし、ぼくは「マイ・フーリッシュ・ハート」がいわば「テーマ」だけで構成されている演奏だと気がつかなかった。それはなぜかとつきつめると、それは、ビル・エヴァンスが、まるでそのときはじめてその曲に出会ったかのような緊張感で、つまり即興演奏となんらちがわない一回性の感覚のままで、演奏をしているからなのである。・・・と、こういう「物語」がぼくのなかにはあるし、じっさいそのような発見と悟りを経験している。しかし、果たしてこれは、後藤氏の、チャーリー・パーカーを通した「発見と悟り」を受け取らないままに起こりえたことだろうかともおもうのである。後藤氏の物語は、ぼくのなかでおそらく器のように変容したのである。そこに、そうでなければもっと混沌とし、ひょっとしたらとりこぼしたかもしれないビル・エヴァンス体験が注がれたのである。

 

「中毒性が高い」という表現も同様のことであろうとおもわれる。それを求めるものがぼくの本質であるのかどうかは、もはや問うことそのものにあまり意味がないのだ。げんにぼくは求めている。ただ、そのきっかけということになると、たぶんことばが先にあったのである。「中毒性が高い」という誉め言葉を知ることで、ひょっとしたらもっと不確定なかたちで、しかもとりこぼしていたかもしれない、くりかえしの体験を善とするような感性が、質感の伴う感想になりえているのである。

 

 

 

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