第64話/四股立ち
倒れた相手に攻撃するすべを知らない猛剣。勝負は立ち技で、というふうに独歩と猛剣のあいだでなったところだ。
まずは空手と相撲の比較、というか、本質的な特長があげられる。空手は、組んでも離れても、攻撃する方法がある。独歩はむかし天内によっていっさいの空手技が封じられたとおもわれた、ありえない体勢にされたことがあったが、そのときでさえ、相手の足の爪をはぐという方法で危機を脱していた。どんな場合にも使える技がある、というより、そういう発想でつねにいる、というのが空手なのである。その意味で、空手は総合格闘技であると。たほうで相撲もまた、組んでよし離れてよしの総合武術であると。使える技の制限自体は多いが、試合展開じたいはけっこう流動的かつ柔軟であるというのは、じっさいそうだろう。そうしたわけで、空手も相撲も、「最強立ち技格闘技」といえるのであった。
そして両者が四股立ちで向き合う。猛剣の立ち方はなんと呼べばよいのかよくわからないが、独歩にかんしては四股立ちということになる。克巳いわく、数ある立ち方のなかでもっとも安定した立ち方だという。つまり、動かずに受け止める気であると。
やがて独歩は右手を引いて拳をつくった。猛剣がこれからするであろうぶちかましに対して拳を打ち込むという、意思表示ということになるかもしれない。
「だからと言って」と実況もいう。だからといって、猛剣はやることを変えない。これは、愚直というか、生真面目というか、猛剣の不器用さのようにも受け取れるが、たぶんもう少しちがう意味もあるだろう。
接近する猛剣を、今回は正拳突きではなく、熊手的に、下から掌底ぶぶんを猛剣の顎にあてていった。効いたようである。次の攻撃は左手だが、なにかはわからない。これも効いているようだ。そして、表情からしてけっこう本気っぽいが、独歩はおそらく決めるようなつもりで、右の正拳を放った。しかし、ややからだを沈めていた猛剣が、この拳を後頭部側に通過させ、肘のあたりをからみとったのである。独歩の顔から血の気がひいていく。容赦なくからだを返し、猛剣は独歩の右手を折るのだった。
つづく。
猛剣は、今回の試合の前に行われた練習戦でも、相手の桑田の腕を折っていた。なんというのかな、力士が、たたかいの結果として相手の腕を折ってしまう、というようなことではなく、関節技としてそれを行うようなところが、彼にはあったのだ。今回もそれが発揮された感じである。
前回考えたことは、空手と相撲が、四股立ちを交差点とした、それぞれなんらかの、それ以外では形容することのできない“ある現象”の喩なのではないか、ということだった。“ある現象”とは、要するに、立って行う攻撃をメインとして、すべての状況に対応しようとしたときに人間の身体に具現するふるまいのことだ。これが、それぞれの条件に少しずつ決定していって、「空手」と「相撲」に分岐したのである。こう考えることで、独歩が猛剣とたたかうにあたって「相撲とたたかう」ということばかりに気を廻し、猛剣という個性を見落としているように見えたことにも納得がいくのである。つまり、別に彼は、猛剣のことをみていなかったわけではない。というより、猛剣であろうが誰であろうが、力士とたたかうということは、「空手を選ばなかったじぶん」とたたかうということにほかならなかったのである。いずれにせよ猛剣という個性は見落とされているともいえる。だがそもそも、この視点においては、相撲という体系の内側に、猛剣とか、巨鯨とか、そういう「個々の解釈」による分岐があるというようなことは、求められていないのである。そこまでたどりついていない、というふうにいってもいいが、独歩からすれば、初期衝動や表層の起伏を説明するにあたってはよく似ているようにもおもわれる相撲とたたかうということが、もっとも重要であり、そこで「解釈」によって生じる個別の力士がもたらす変化は、そのことによって負けてしまうとか、苦戦するとかいう結果をもたらすのだとしても、どうでもいいのである。
そのように考えたとして、では、両者が「空手」を、あるいは「相撲」を選ぶことになった、その条件とはなんだろうかということが問題になる。つまり、空手を空手たらしめるもの、相撲を相撲たらしめるもの、これこそが、両者を差異化するものである、こののちに訪れる勝敗などの結果に作用していくはずなのだ。
最初のところでちょっと書いたように、両者はたしかに、説明をしようとすると、どんな状況でも使える道具をもっているという点では総合格闘技的でもある。だが、試合のルールにかんしていえば、空手は相撲ほど制限が多くはないだろう。相撲は、その制限によって、勝敗を決することができる。たとえば、足の裏以外を地面につけてはいけないとか、そういうことだ。だから、取り組みにおいては、つまり勝とうとするときには、相手をその状況から逸脱させようと努力していくことになる。相手に足の裏以外を接触させようとするのである。それが果たして実戦を考慮したときになんの意味があるのか?という疑問は別に出てきてもいいのだが、ルールとはそもそも、そうして、試合を練習成果の発表の場としたときに、うまくそれが表現できるように設計されているものである。
だが、相撲に関してもそうしたルールについての一般論があてはまるかというと、不思議な感じがする。ふつう空手などで「試合」や「ルール」というときには、まず“原型”があるわけである。原空手とでもいおうか。原空手は、もちろん顔面への殴打も含めて機能するものである。つかみも、関節技も、投げも考慮のうえ設計されている。しかし、試合は成果の発表である以上、たとえば武器もOKだよというはなしになれば、その人物が拳銃をもってきたとして、果たして空手の試合、身につけた空手の技術の成果を発表する現場は成立するだろうかというと、しないわけである。これは極端なはなしだが、ルールというものはそうやって決められている。現実には、現場の稽古というものは、試合を標準モデルとして組まれるので、たとえば空手においても、顔面殴打なしを標準として稽古が行われていることは否めないだろう。が、いちおう本質的にはそういうことになるはずである。そして、それがどれだけ身についているのかを試す機会が試合だとしたときに、どういうルールだとそれがいちばんしやすいかと、こういうふうに考えて完成したのが「試合」なのである。しかし相撲はどうもそういう感じがしない。あの制限もこみで「相撲」のようにおもわれるのである。
たとえば、そんなことはありえないが、独歩が神心会主催の大会に出場するようなことがあるとしたら、そのときのたたかいかたと、いま彼がふつうに見せる実戦型のたたかいかたは、ぜんぜんちがうものになるはずだ。ところが、相撲ではそういうことが起きない。どんな条件でも、力士は力士で、あの立ち居振る舞いでたたかいをしそうなのである。しそうなだけではなく、これまでのたたかいでそれはほとんど証明されているといってもいいだろう。
こう見てみることで、ようやく相撲の特殊性もわかってきた感じがする。彼らは要するに、「実戦」と「試合」の差がないものだったのだ。
このことは、大相撲が神事であることとはまた別に、大衆の人気を獲得していることも含めるとおもしろくなる。独歩やバキなどの“裏”の格闘技は、親子喧嘩以前までは、地下にあるのがふさわしい存在であった。親子喧嘩や宮本武蔵を経由したいまでも、現実世界での認識はたいして変わっていないようでもあるが、まあ世の中なんてそんなものということでここは片付けておいて、要するに独歩には裏の顔がある。だが、独歩からすればそれは、闘争の技術を追究したあとに出てくる自明のものでもある。かつて通り魔を打ち倒したときの映像で、独歩は「使用してはならない技」を用いた。これが「監視カメラ」によって撮影された、というところが示唆的ではあったが、要するにふつうの文明社会においては、空手が自然に追い求め、獲得したあれらの人体破壊の技術は、存在を許されないのである。ところが、いっぽうで、並行世界の空手ととらえても差し支えない相撲は、大衆の人気を獲得しているのである。彼らは、特に「裏の顔」をもたない。見たまんま、あのまんまでもう「相撲」である。並行世界の空手として強さを求めながら、大衆の目に触れて差し支えないルールを獲得したこと、これが、相撲を相撲たらしめるものだったのだ。もっといえば、「だから強い」ということにもなるかもしれない。彼らは、たたかうにあたって技術を選ぶ必要がない。ずっとそれだけやっていれば、もう強いのである。空手家は柔道家を、柔道家は空手家を不安におもうものである。だがそういうのもおそらくない。相撲はその制限によって相撲たりうるのである。だから、猛剣が相撲のたたずまいにこだわるのは正しいのだ。たほうで空手は、天内戦での爪はがしがわかりやすいが、技術というより思考法にこたえがありそうである。ごくわかりやすくいえば、力士は「すべてのこたえが記されている」体系のなかにあり、空手家は「こたえがなくてもなんとか見つけてくる」思考法のなかにあるのである。
意外なところに着地したが、これは、だいぶ前から書いている、相撲が「見るもの」である例の問題にも届く理路かもしれない。宿禰はその点にルサンチマンを抱えているが、大相撲は「見られること」を意識した結果、「試合」と「実戦」に差がない究極の体系を見出した可能性があるのだ。この点を・・・宿禰戦まで覚えておけるかな・・・。
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