第54話/体格差の限界
渋川剛気の神技は6倍の体重差も退ける。だが、対する巨鯨もただでかいだけではなく、相撲でくちに糊する力士である。宙を舞いつつもたくみに身体をコントロールして逃れる。喉への貫手にも耐える、耐久力とはまた異なった我慢強さもあるのだ。
こういうところで、達人は組み合おうと申し出るのだった。
達人の高さに低く沈み、大関は相手の脇のしたに手を差して帯のあたりをつかむ。ふつうに考えてもはやどうしようもない状況である。なにしろ体重6倍差である。70キロの成人が2~3歳くらいの幼児と相撲するような状況なのである。それでも、3歳児が相手を転ばせることに成功しさえすれば、喉に向けてジャンプしたりすれば勝機もある。だが接触し、からだのいちぶをつかんだ状態からはじめて、なにがどうなるというのだろう。
そんなことをしなくても、「真剣勝負」という俎上であるなら、いくらでも渋川が勝利できるパターンはある。だが、それらをすべて放棄して、相手のふところから再開する。この心性を独歩は「業」ともいう。そうせずにはいられないのだ。
さすがに体格がちがいすぎて、大関のまわしには手が届かないのだろうか、渋川は上から大関の腕を抱え込む。そして、実況がいう「ヤリたい放題」という表現を虚脱した語調で復唱する。じっさい、そうおもわれる。巨鯨ももはや渋川の実力を疑ってはいない。というわけで、帯をつかんで手にちからがこもる。その先には異様な感触が待っていた。これを解説するのは、どこかのファミレスで取材を受ける後日の彼じしんである。思い出されるのは小学生のときに誰かが教室にもってきたコンドームである。どうでもいいけど、てっきり巨鯨は、曙や小錦的な外国人力士なのかとおもっていたが、この小学生たちの雰囲気は明らかに日本である。それとも、外国人ではあるけど、日本の生活が長いということかもしれないが。
バカ男子たちは大盛り上がりである。まだ使い道もわからないものもいるだろうが、ともかく、学校に存在が許されるようなものでないことはわかるだろう。彼らは、おそらくなにかおもしろいことができないか考えて、蛇口から水をいれることにした。それが、信じられないくらい入る。そのときのことを巨鯨は思い出していた。ものすごく巨大な、水入りのコンドームを背負わせれている感覚なのだ。しかも重さは増していく。まぎれもなく「魔法」だと巨鯨はいうのだった。
取材を受けている彼のもとには子どもたちがサインをねだりにくる。象徴的な光景だ。彼らは、子どもたちが「強い」と信じ、そしてそれを実現していくことを生業にしている「力士」なのである。それが「魔法」だとしても、「力士」としてハネ返さないといけないと、そのように使命を語るのであった。
つづく。
どういう向きにだか放り投げられた渋川剛気が、すそをはためかせながらたぶん水平方向にロケットみたいにとんでいく。消力的に、ロケットではなく、身体を紙のように躍らせることができれば、減速も可能かもしれないが、このまま壁にぶつかったらさすがにちょっとまずい。合気は、相手の運動機能をコントロールする技術なので、すでに発射してしまっている以上、これを回避するには合気以外のものが必要になる。まあ達人は柔道もやってたし、柔術的な技もつかうからなんとかするかもしれないが。
巨鯨が渋川剛気の粘りにコンドームを思い浮かべるのは、その伸縮性においてである。たんに重いのではないのだ。つかみどころがなく、なんだかよくわからない、しかも徐々にふくらんでいく、言い当てることのできない負荷なのである。ふくらんでいくのは、巨鯨が抵抗するからである。毎度のくりかえしになるが、人間の動作は、どんなにたんじゅんなものでも、内側には複雑な筋肉の働きを孕んでいる。様々な筋肉が、さまざまな方向、さまざまな量で働きあって、ひとつの動作を完成させているのだ。だからこそ、ほころびを発見することも可能になる。渋川剛気は、じぶんがいじることのできる小さなぶぶんをみつけて、それをコントロールし、じぶんのちからも加えてしまうだけでいい。そうすることで、複雑な構築物だった「ひとつの動作」は崩壊し、うまくすれば反転することになる。今回も、巨鯨の持ち上げる動作を、おそらくうえから抱えたあのかたちで操作し、重さに変えてしまった。むろん、巨鯨はその重さにあらがってさらにちからをこめるので、反転していくちからも増えていくという寸法である。この理屈でいえば、巨鯨はどれだけ「力」を行使しても、そのぶんだけ重くなるので、持ち上げることは絶対できないことになる。なにが彼にそれを可能にさせたのか。達人は落ち着いており、技術面で穴はないとおもわれる。であるなら、解釈が開けそうな方向はひとつしかない。少なくともここで巨鯨が行使している「パワー」は、相殺したり反転したりすることのできる、ベクトル的な量と方向の具現ではない、ということである。これはほとんど矛盾した解釈である。パワーとは、量のことなのだ。だとするなら、これはパワーではないことになるのである。ここでは、なかなか、渋川剛気にとっては致命的ともおもわれる転倒が起きている。なぜなら、巨鯨がパワーとはまたちがったなにかで逆転しつつあるところで、渋川剛気じしんは、「パワー(の借用)」を行っているからである。逆なのだ。
達人の技を「反射につけこむような」というふうに表現したのはアライジュニアである。これは、モデルとなった塩田剛三の技にも通じる表現だ。究極に追い詰められた人間は、痛みで制圧することができない。腕を極めて、仮に折っても、生命をかけてくる相手はそれだけではとめられない。痛くて動けないのではなく、原理的に動けない、という状況にしなければ、真の制圧は達成されない。これが渋川においては実現していたことを、アライジュニアは一瞬の接触で見抜いたわけである。
このときの制圧される感覚を、相手が「重さ」と感じることは、無理のないことでもある。組み合って、動けなくなるとき、膝にちからが入らないとか、そういうふうに表現したものはいたが、巨鯨はおそらくその不思議な感覚もこみで重量、そしてゴムの柔軟性を思い浮かべている。だがげんに彼はこれを覆した。これはオリバですらできなかったことだ。達人とオリバの初戦は握手ではじまりそのまま終わったが、オリバはそこから一歩も動けなかった。まあ、たたかう理由がないということもあり、互いにぜんぜん本気ではなく、遊び半分ではあったけど、たぶんあれはどうあがいても動けなかったはずである。それが覆るのはどうしたわけかというと、おそらく達人は今回、いつものように、アライジュニアのいう「反射につけこむ」種類の技術を行使していないのである。ではなにをしたのかというと、いわゆる、一般的に認識される「合気道」の原理、つまり、相手のちからをそのままお返しするという、アレを、やっているのである。技術的にはたいしたちがいはないのかもしれない。だがこれは、量にこだわる点で、「最終的に痛みで人間を制圧することはできない」という達観が、抜け落ちている。「痛み」や量的な「重さ」ではなく、動くことそれじたいが不可能になるような技が、ほんらいの達人の持ち味なのだ。それを今回彼は、典型的とでもいうか、相手の用いるパワーをそのまま転用するという、「いわゆる合気道」的な流れですすめているのである。
そのような流れになった原因はふたつ考えられる。ひとつは、渋川剛気じしんがそれを望んでやっているということ、もうひとつは、巨鯨との創造物としての闘争が、必然としてそれを呼び込んだということ、このふたつである。
ひとつめの可能性もじゅうぶんある。渋川剛気は合気の可能性を広げていくことを今回の試合の目標としている。とすれば、ある意味で、彼は今回負けてもいいのだ。目的は、その後にさらに強くなることなのだ。このまま、「反射につけこむ」技術を使い続ければ、力士のスタミナの問題もあって、たぶん達人は勝ってしまう。でもそれは特に望んでいない。今回バキや克巳もそんなことをいっていたが、これは別に「真剣勝負」なのではないのだ。これも何度か書いてきたことだが、この試合でバキたちは、これまでのような「いのちのやりとり」をベースとした真剣勝負、ではないところにおける実戦、すなわち古代相撲というところに興味を向けているわけである。いってみれば勉強会なのだ。それでも、根っこはファイターだから、勝ちたい気持ちはあるだろうが、達人がとことんじぶんを追い詰めていくところを見ていると、やはり彼がパワーに対してとことんパワー返しで対応していったらどうなるか見てみたい、と考えているんじゃないかということは、やはりおもわれるのである。
そこから接続する解釈にもなるが、今回の試合を両者の創作だとしたときに、必然的に訪れる展開がこれだったというのがふたつめのものだ。前回の「組まないか」という提案が、四つに組むということであると同時に、ふたりでなにかを達成しないかと誘っているように見えたということは書いた。ふたりで向こう側にいってみないかということなのだ。そしてげんに、巨鯨はさきに向こう側に到達した。つまり、パワーの向こう側である。加えたちからに達人の力が加わったぶんだけ戻ってくる状況で、さらにちからを加えれば、コンドームのなかの水は増えていくのである。しかし彼はこれを覆した。どうしてそんなことが可能なのかはわからない。それが合気の限界ということかもしれない。つまり、仮に10個のベクトルが複雑に働いている系があるとして、達人はそのうちいちばん小さい、じぶんのちからで制御できるものを選んでコントロールし、構造を崩壊させるわけである。だが、その10個の力が成す全体がどんどん大きくなっていったとき、「いちばん小さいベクトル」が、達人の腕力を超えてしまう可能性は、ないではないのである。科学的にいえば合気の限界とはここになるだろう。たんにその境界のようなものがやってきただけかもしれない。だが、今回の巨鯨のサインのくだり、力士としてのプライド描写を見ていると、やはりここには、バキたちが期待した一種の聖性が宿っていると考えられる。これも、必要なら科学的に分析することはできるかもしれない。たとえば、合気の技を体感するうち、ジャックのように、巨鯨も無意識にその「小さなベクトル」を複雑に駆使した動きをしていたとか、そんなことである。ともあれ、重要なことは、パワーにパワー返しで応じる達人を、彼がひっくり返したということなのだ。向こう側に先に到達したのが、巨鯨なのである。
達人もまた合気の向こう側にいきたい。そのために、彼らは組み、協力して、お互いの技をぶつけることになる。達人ではそれは、パワーにパワーに応じるということだったのである。これは、くりかえすように、アライジュニアのいう「反射につけこむ」ような、無敵の技術とはまた別種の対応なのだ。また、そうすることで、達人は巨鯨にも成長のチャンスを与えることになる。そうでなければこれは組み合い、協力的闘争にはならない。これが、達人がこの展開を選んだ理由ではないかと考えられるのである。
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