今週のバキ道/第39話 | すっぴんマスター

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第39話/VS小結 炎

 

 

 

 

横綱・零鵬が圧倒的貫禄を見せつけたあと、登場したのは小結・炎である。これは、最初に大相撲側のメンバーが紹介されたときと同じ順番になっている。ふつうに考えて横綱は宿禰とやるだろうし、そうなると2番手はバキだろうから、やっぱり炎はバキとたたかうのかな。

炎は身長165センチで97キロ。体重との比較でいえば、それは一般的にいって格闘家として重いほうにはなるが、全体でみるととにかく小さい。バキより背が低いのである。

対するのは、新しく用意された適当な相手である。貝沼文也という、やはり総合の男だ。表の舞台で大衆の耳目を集める大相撲が裏世界のバキたちとたたかうわけであるから、少なくとも表世界の強者を圧倒してくれなくてははなしにもならない。というわけで、表世界ではそれなりの強者であり、なおかつ、地下闘技場のルールに近く、バランスもよくいろんな攻撃をしてくれる総合格闘家がおもに準備されたようである。

貝沼は179センチ97キロ。体重は炎といっしょだが、背は14センチも高い。というか、炎が小さすぎるのである。貝沼の身長体重はいかにもバランスがよい。彼は、もともと空手出身の選手だったが、一本をとったところで、とどめをささずに試合が中断するのが納得いかず、総合に進んだようである。闘争本能はじゅうぶんだ。そして、そのぶん、炎の小ささにがっかりもしている。相撲とたたかえると聴いてきたのだ、誰だって、巨体をどのように叩き、倒すか考え、その不思議な体型から、なんでもありのルールでどんな技が出てくるのかと期待するのである。ところが、相手は巨体ですらないのだ。けれども、やはりそれなりに経験のある選手ということか、なめてかかるつもりはないようだ。小さくても彼は小結、なにかあるにちがいない。思い切りいくと。

しかし試合開始とともに、貝沼は異変に気がつく。炎がじっさいより大きく見えるのである。様子を見るつもりもあるのか、貝沼はまず下段蹴りで攻めるが、“まず”もなにも、それは貝沼の最初にして最後の攻撃となった。動いているところすら知覚できないまま、貝沼は背後をとられ、腹部のところでロックされる。そして、そのかためている腕のちから、また背後からの圧力がふつうではない。貝沼のイメージのなかの炎はどんどん大きくなっている。このとき貝沼は炎を見ていないので、これはたんなる闘争心的なもののスイッチによる印象の変化ではない。じっさいに、それだけの巨体がもたらすパワーが、炎にはあるということなのだ。

炎はそのままとびあがりつつブリッジするように、ジャーマンスープレックスをかける。貝沼のイメージはどんどんふくらみ、ついに、片手でからだをつかまれているかのような感覚に陥る。跳躍のあとのコマでは、炎は貝沼の腹部に手をそえて、高く飛び上がった位置から地面に向けて片手でたたきつけるような描写になっているが、これが貝沼のイメージなのか、じっさいに空中でそのようになったのか、よくわからない。ふつうにみるとそえられている手がでかすぎるので、イメージとおもわれるが、そのあとも、貝沼を片手で投げるような炎の動きは続いているのである。

 

圧倒的なパワー。炎の秘密は“怪力”なのだった。

 

 

 

つづく。

 

 

 

これは逆に意外であった。嵐川理事長は、「小手先だけじゃああの体躯で小結張れませんやな」と述べている。そう、ぼくも、炎はきっと、いわゆる「技術」のひとなのだろうと思い込んでいた。しかし、それだけじゃあ小結まではいけない、というのが大相撲のもたらす現実のようである。小さい小結は、大きな力士たちに負けないために、ちからを蓄えてきたのだ。たしかに、この身長体重の比率は、ふつうの格闘家ではなかなか考えられないもので、力士は見た目より脂肪が少ないともいうし、ものすごい筋量なのかもしれない。だが、体重は、そのものが作り出すことのできるエネルギーの限度となる。それを超える源泉となるものがスピードだが、今回貝沼は静的なクラッチに怪力を感じており、スピードの入り込む余地はない。それ以外、体重が関与しない「パワー」というと、やはり握力である。いや、腕のちから全般といってもいいかもしれない。まあ、このくらい小さいと、普段の稽古でも、すべてのぶつかり稽古が1RMという感じで、つねに限界を超えていかなければならず、それに打ち勝というある種の執念が、炎に怪力を宿した、という感じなのかもしれない。

 

相手が見た目よりはるかに強く、大きく見えるというのは、板垣作品では、というか格闘漫画作品ではよくある表現だ。炎は、巨体揃いの力士たちのなかで頭角をあらわすためには、そうするしかなかったのである。じっさいには、彼は怪力だけの人間ではないだろう。貝沼が移動したことそれじたいに気づかない速度で背後にまわりこんだ、スピードと、ステップというかなんというか、タイミングを読むちからもある。だが、それだけではやっていけない。嵐川はおそらくそういうことをいっている。「小手先だけでは」というからには、炎は小手先も優れているのである。そのうえで、もっと大きいものにも負けない腕力を、炎は身につけた。ところが、これは、炎には残酷な現実でもある。というのは、小さいということが、弱点以外のなにものでもないからである。彼は、その弱点を補うために、怪力を身につけるほかなかった。となれば、「怪力を備えた小柄な力士」は、「怪力の大柄な力士」とちがわないことになるのである。克巳は片腕というオリジナルを求めたが、炎は小さいということそれじたいを利用していないのである。していないというか、大相撲という環境が、それを許さないのである。これは、相撲に限らず、あらゆる格闘技が、無差別で試合を行おうとしたときに必ず直面する問題である。体重無差別でトーナメントを行うと、ごく例外的な天才を除いて、重いものが強いのである。少なくとも、試合という、身につけた技術を確かめるという場面の役割は、無差別では果たせないことになるのである。そのために、特に技術を重く見る競技では、体重による階級が厳密に分かたれることになる。ボクシングがあそこまで細かく階級をわけるのは、体重によるパワー差をなるべく抑えて、純粋な技術戦を行うためなのだ。

そして、重要なことはここからである。純粋な技術戦を行う、というのは、どういうことか。それは、その競技、格闘技が、どれだけ普遍的な技術体系を備えているか、ということの表明でもあるのである。技術は、努力の結果身につくものだ。だから、体重が無関係になる試合なら、その身につけた技術それじたいで競い合うことができる。ここには、普遍性がある。「誰でも」参加することができる、それが普遍的であるということなのだ。男でも女でも、老人でも子どもでも、参加し、体系を学び、努力を重ねれば、少なくとも「それなりに」強くなれる、それが普遍的な格闘術というものなのである。

炎は、ふつうではない巨体の力士たちのなかにあっては、いわば老人や子どものような存在である。それが強くなるにはどうすればよいのか。これに、大相撲は普遍性では応答しないのだ。小さいのであれば、大きくなれと、このように告げるのが、大相撲という特殊な環境なのである。これは、むろんのこと、普遍性からははるかに遠い。これが、宿禰がそのふるまいの縁取りでもって外部から告発してきた、大相撲の抱える「見るもの」というありかたである。彼らは、金竜山のいうようにまさしく「貴族」であり、選ばれしものであり、外部からそれを観測するものは、自然に、それを他人事として、当事者意識なしに「眺める」ことになるのである。

そして同時に、これは前回書いたことでもあるが、それはたたかっている当事者の意識にも影響を与えているわけである。力士たちは、職業格闘家として、猪狩がそうであったように、見られるものとして強者たるのである。バキたちはちがう。この意識が、おそらく地下闘技場では取り払われる。地下闘技場にも観客はいるが、力試しのこの現場にはおらず、そして彼らはそこでも強い。いま、彼らはじぶんのためにたたかっている。それこそが、スポンサーとか、「空気」のようなものに左右されなかった金竜山の体現する「きれいな」相撲だったのだ。このとき、彼らは「貴族」ではなくなるはずである。その姿がどのようなものになるのか、それを、バキたちは期待して待っているのである。

 

 

 

 

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