ウルトラマンフェスティバル2019 | すっぴんマスター

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(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

8月10日、池袋サンシャインシティで行われているウルトラマンフェスティバル2019に行ってきた。
 
 
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ライブステージ、限定物販、名場面のジオラマ展示、子どもたちにはうれしいウルトラマンになりきれる企画や写真撮影、会場にいればだが、ランダムで出現するウルトラマンと握手なんかもできちゃう実にすばらしいイベントである。

 

ぼくがウルフェスにくるのは初めてではない・・・。当時からその名称だったかはわからないが、子どものときにきたことがある。池袋だったはずだ。ぼくは1983年生まれなので、6歳くらいというと1989~90年くらいになるが、ネットで調べてみると、ちょうど谷間の頃合である。ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブンと名作が続いたあと、じっさいの空気感まではわからないが、ポピュラーとは言い難かった時期が続き、1996年にウルトラマンティガが現在まで続く潮流を作り出すまでは、わりと暗黒時代みたいなところがあったのである。そういう背景のぼくが子どもじたいになにを見ていたのかというと、ウルトラマンタロウだった。あとセブンもけっこう見てたけど、どちらかといえばタロウだった。なぜかというと、朝の5時くらいに、再放送がやっていたからである。といっても、タロウは1973年の作品なので、すでに何度も再放送が重ねられたあとだったとおもうが、とにかく、ぼくは、いまでも変わらないが、朝早く起きるのがなによりも苦手な人間であるにもかかわらず、時間がくると、おそらく親だって眠かっただろうに、起こされて、覚醒しないままテレビの前に正座をして、タロウの勇姿を見ていたのである。5歳くらいだったとおもう、ウルトラ怪獣大百科みたいなものを丸暗記していて、怪獣の大きさや重さや足跡などをすべて記憶しており、保育園でウルトラマン博士などと呼ばれていた記憶がある。これもいまでも変わらないが、ぼくは好きなことをしているときの集中力が並外れており、テレビの前にほんとうに正座をし、話しかけてもまったく気づかず、まばたきもほとんどせず、くちをあけてテレビを見ている様子が、父の撮影したホームビデオに記録されている。また、それらテレビ放送は録画もされ、ぼくは、宝塚とか映画とかもそうだけど、好きなものを何回も何回もみる人間なので、タロウもテープが磨り減るほど見ていた。しかし、当時からうすうす気づいていたことではあるが、とりわけセブンのシリアスさ、ウルトラマンの社会批判的性質を比較すると、タロウは明らかにお気楽大衆娯楽という感じであった。でも、いまでもぼくはそれが好きだ。ウルトラマンシリーズには必ずウルトラ警備隊的な、ときにはウルトラマンをサポートし、ときには邪魔をする人間たちが登場し、そのメンバーのひとりがウルトラマンである、というのは定型的設定になっているが、タロウにおけるZAT(ザット)ほどひどいウルトラ警備隊はあとにも先にもないだろう。ザットについて語り出すとキリがないが、特にあの副隊長である。ほかのウルトラ警備隊同様、ザットも怪獣が出現するとすぐに出動するのだが、ほとんどなにも考えていないため、あっという間にやられることになる、のはいいのだが(よくないけど)、そのたびに乗ってきた飛行機が完全大破するわけである。その際、まるでカッコイイ決め台詞であるかのように、小太りの副隊長が「脱出!!」と叫ぶのである。このシーンが、ほぼ絶対ある。怪獣が出るたびに、何億するのだか、立派な戦闘機をぶっ壊し、そのお金はいったいどこから出ているのだろうと、子どもながらに心配になったものである。だが、この副隊長はいまでもぼくにとって上司にしたい男ナンバー1である。あんなに真剣に部下や市民の声に耳を傾けてくれる男はそういない・・・。いまでもそうおもう。まあ、ちょっとなにも考えなさすぎのような気もするが・・・。

 

 

 

↓トラウマ回「ゾフィが死んだ!タロウも死んだ!」のバードン戦。タロウとゾフィが死ぬ。しかし生き返る。

 

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まあそういう感じで、ウルトラマンが好きな子どもだったので(仮面ライダーもブラックとRXを見ていたが、それほど細部まで記憶するという感じではなかった)、当然、そういうイベントにも出かけることになるのである。が、残念ながらぼくはインドア人間である。つくづく、三つ子の魂百まで、ということばの正しさを感じるが、ぼくは家でテレビを見るのが好きなのであって、大勢ひとがいるところでウルトラマンを堪能できるかというと、そういうことはないのであった。前後がどういう文脈だったか思い出せないが、なにかこう、ウルトラマンと握手できるチャンスみたいなものが訪れて、両親はぼくをいかせようとしたが、かたくなに拒んでいかなかったことを覚えている。もちろん、まったく、ぜんぜん握手なんかしたくない、というわけではなかったろう。ウルトラマンが、ぼくの部屋にやってきて、誰も見ていないところで手を差し出してくれたら、ぼくは大喜びでしたはずである。

あと覚えていることといえばそうだな、レッドキングやピグモンが登場する「怪獣無法地帯」を上映するミニシアターみたいなのがあって、スクリーン脇に思わせぶりなカーテンがあり、レッドキングの登場場面かなんかで鳴き声とともにレッドキングの状態が飛び出す、という仕掛けのアトラクション的なものがあったことを覚えている。

 

 

↓「ボクが喧嘩止めてくる!」「話せばきっとわかる!」という感じで駆け寄ったピグモンを岩で惨殺したかのレッドキング。獰猛だがどこか憎めない。

 

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さて、そういう少年が今年36歳になろうとしているわけで、つまり今回は30年前のリベンジということになる。じつにじつにすばらしいイベントであった。会場は記憶しているより狭かった・・・のは、じっさいに狭くなったのか、それともぼくが大きくなったのか、よくわからないが、名場面を模したジオラマのあいだを大勢のひとが行き交い、写真撮影OKということで、みんななにより撮ることに夢中である。ぼくも、あんまりふだんは写真を撮らないけど、せっかくなので何枚か撮ってみているわけである。たまたま、ぼくらがいったときには革命児ティガが会場にいて、しっかり握手してもらった。30年越しに、へんなプライドみたいなものが邪魔してできなかった握手を、ついに達成したわけである。ティガの手は、あたたかく、そして意外とやわらかかった。

 

そして、今回は、事前にチケット購入時に予約していたライブステージがあった。現在放映中のウルトラマンタイガ(タロウの息子)の筋ありのショーである。予想はしていたが、最и高だった。子どもがいないぶん、そういうイベントにいくことがそもそもあまりないので、そういうのもじつは楽しみにしていた。要するに、キャプテン・アメリカが戦中にアメリカの兵士の象徴としてパフォーマンスをしていたとき、背後から迫る悪党を、観客の子どもたちがこぞって「うしろにいるよ!」と教えてくれた、あの感じを、きっと体験できるにちがいないと。ピンチのウルトラマンを子どもたちの応援が支え、じっさいに選ばれた子どもたちはたたかいに間接的に参加することにもなる。たとえば、仕掛けてあるトラップを作動させるボタンを、任意の子に渡して、合図とともに押してもらうとか、そんな感じだ。物語終盤、倒れたタイガをひとりのこどもが代表して光のエネルギーで復活させる、という展開になるが、そのとき呼ばれたのが、ちょうどぼくの真後ろに座っていた子で、ぼくはもう、それを見て泣いてしまった。というかもう、始まってからずっと、ぼくは笑いながら泣いていた。感動なのかなんなのか・・・。30年間封印してきた感情が、会場の子どもたちを通じて解放された、みたいな感じなのかもしれない。彼らを通じて、30年前のぼくが報われたような感覚を覚えたのだ。

 

最近のウルトラマンの傾向として、協力、あるいは友情というようなことがある。タイガも、友人といっていいのかなんなのか、力の賢者・タイタスと、風の覇者・フーマというふたりと交代してたたかう(三人ともひとりの人物に宿っている)。その、復活のエネルギーを送る役に選ばれた後ろの子はフーマが好きらしく、フーマがあらわれた途端「フーマだ!!」と露骨にテンションが上がっていて、すごくかわいかった。ちなみに力の賢者・タイタスだが、彼は賢者パートより「力」のぶぶんがとてもおもしろい。ウルトラマンは基本的にすらっとした筋肉質体型が多いが、タイタスはふつうにボディビルダー体型で、サイドチェストとかラットスプレッドみたいなポーズを不必要にする、非常におもしろいヒーローである。レオとか、アクションが凝っている感じのウルトラマンでも、比較的武術家タイプが多かったなか(レオは空手のカウンターとか合気道的な動き、また廻し受けふうの動きなんかもしたりする)、彼はほんとに「力!拳!筋肉!」というビスケット・オリバみたいなたたかいかたで、斬新である。おもえばボディビル系の肉体に賢者というのはなかなか思いつかない組み合わせだが、オリバがそうなんだよな。

 

タイガもおもしろいが、少し前のオーブも、すごくよくて、ぼくはとりあえず本編はすべて鑑賞した。オーブは先輩のウルトラマンの力を宿したカードを使って「フュージョンアップ」する、というヒーローで、ともに時代の起点であるウルトラマンとティガが合体したり、タロウと弟子のメビウスが合体して物理的な意味ですごい熱血漢になったりと、ウルトラマンを通して知っているものにはたまらない変身をくりかえしていた。とりわけべリアルとゾフィーである。ベリアルは最強のヴィランのひとりであるが、ウルトラマンの一族でもあり、それが、あの世界の学級委員的な存在であるゾフィーと合体するのだ。もちろん、おのおのヴィジュアルも凝っている。敵役のジャグラーという人物もたいへん魅力的である。なにより、ジャグラーの人間状態を演じている青柳尊哉というひとの芝居が最高である。けっこう舞台もやられているかたなのかな・・・。そもそも芝居がかった過剰な人物であるジャグラーをあそこまで魅力的にしたのは、演技の体力が備わっていてこそだ。じつは今日、ずっと見ていなかったオーブの最終回の録画を観たのだけど、すごかったなあ・・・。

 

ふるいウルトラマンの作品を見ていると、実相寺昭雄のジャミラのような例外はあるとしても、ワンパンマンのガロウみたいな気持ちになっちゃうというか、ただ寝てたとこ起こされて暴れてるだけなのに、寄ってたかってやっつけて、あげくには自慢の尻尾切って、なくなった尻尾を振ろうとするのを見て肩をすくめたりとか(ゴモラ)、ちょっとムムとなってしまう脚本もないではない。しかし、それは時代の価値観というものである。そういうところも、ティガ以降着実に克服していっているのが、ウルトラマンが現代でも愛されている理由だ。もはや怪獣との対決はたんじゅんな善悪二元論ではないし、ウルトラマンもたんなる超人ではない。もともと、ウルトラマンにはそういうぶぶんがあったが、それが、作り手たちによって批評的に前景化され、消化され、そして内面化されていっている感じだ。

ウルトラマンの超人的なちからは、ある種の「原罪」である。このはなしは以前にもしたことがあるので、最後にリンクを貼っておき、ここではざっと話すにとどめるが、プラズマスパークといって、人工的な太陽のようなもののちからを借りて、彼らはいまの超人的ちからを手に入れた。だが、それは同時に、災厄を招くことにもなる。映画「大怪獣バトル」では、ちからに魅せられたベリアルが堕落し、とてつもない災いをもたらすことになるし、真船一雄の漫画では、そもそもそれが原因で怪獣たちが誕生することにもなったのだ。つまり、ウルトラマンがたたかう相手というものは、ウルトラマンが誕生した瞬間に、その内側に、潜在していたものでもあったのだ。存在に含まれる罪が具現化したもの、それが怪獣だった。彼らは、みずからが太陽のもとに存在する権利を獲得するために、怪獣とたたかう義務があるのである。だが、こうした事情は、おそらく脚本上ではあとになって“発見”されたものではないかと想像する。ウルトラマンの存在は、ニーチェがプロメテウスの神話から見出した「悲劇」そのものである。プロメテウスは人間に「火」を持ち込み、大きな利益をもたらしたが、同時に戦争など災いも呼び込むことになった。これは、俯瞰する限りでは矛盾にほかならない。だが、それでも生きようとするのが人間である。だから、ウルトラマンの神話が時代とともに進化していくのも自然なことだ。それは、「火」にかんするわれわれの価値観、知見の進展と歩を同じくするものにちがいないからである。そのうえ、シリーズは子どもたちに向けてつくられてもいる。なんとなく、エンターテイメント的に、適当な気持ちでつくっている大人はひとりもいないだろう。これほど批評的に、自覚的に編まれつづける物語もそうそうないのである。

 

 

 

 

■大怪獣バトル・・・生の是認

https://ameblo.jp/tsucchini/entry-10938764205.html?frm=theme

 

 

 

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